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コペルニクス的転回!?

私は最近では酒はほとんど飲みませんが、酒の席で避けた方が(シャレじゃないですが)良い話題と言うのが、「政治」「宗教」「野球」だそうですね。酔っ払うと冷静に話ができなくなって、ケンカになるからでしょう。

私は中学生の頃からこの3つに興味があり、ただし「野球」については現在はまったく関心ありません。子供の頃は王選手とか人格も含めて尊敬の対象でしたが(作られた虚像を尊敬していたのかもしれませんが)、今はそんな選手はみあたりませんし。

ただ、「政治」や「宗教」にはいまだに深く関心があります。私の関心と言うのは、どちらも特定の組織に所属したり何かの思想を信奉したりを言うことではなく、世の中にはどういうものの考え方、社会の捉え方、人間の理解のしかたがあるのか、と言う点に興味があるので、それらに関心があると言うことです。その中でどの考え方が優れているのか、最終的にはその点を見極めたいと思っています。

子供の頃から私が求めていたのは、この世の中、一体何が真実なのだろうか!?と言うことへの答えです。

その点、政治や宗教では世の中に対していろんな解釈がありますが、正直、どれが本当かわからないと言うか、はっきり言って、何が本当の事実かは関係無く、自分の頭の中に描いたものが真実だと(思いたい)と言う感じがします。

この年になってわかったことは、私のように、客観的な事実や真実が何かを知りたい人間と言うのは少数派で、自分が頭で描いている世の中への認識が正しいと思いたいと言う人間がほとんどだと言うことです。

いや、自分もそうかもしれません。なぜかと言って、自分の主観が客観的に正しいかどうかは、主観的にはわからないからです。

ただ、世の中のほとんどの人たち(特にマスコミ関係者・ジャーナリスト・知識人・文化人・政治家等)の言動や思想に客観性が無いとか、そもそも客観性など求めていないと言うことはわかります。

もちろん、思想・信条は個人の判断で決めるものですから、そこに客観性は不要ですが、現状認識に至るための「事実」だけは客観的なものでなければならないはずです。ところが、彼ら彼女ら、まあほとんどの人間にはそれすら無いのです。今やネットで一次データを探すことは用意なのにもかかわらず、その努力をせず、自分の認識にあわない「事実・現実」を見ようとしない人たちばかりです。

風邪を引いて体力がなくなっている人間に、体力をつけるためにハードなトレーニングを命令するような人がかなり多いです。いや、そんな奴はいないと思われるでしょうが、これは比喩的な表現で、「日本経済はデフレから脱却していないのに、財政再建のために消費増税をするべき」と言う世にありふれた発想は、まさにこの考え方と同じものです。

まあ、偉そうにそういう私こそ、小さい頃に母親からよく「お前は自分勝手な人間だ」「自己中心的すぎる」「自分を中心に世界がまわっている思っている」「利己主義」「エゴイスト」などと注意されてきました。

おそらく母は私に、「自分のことばかり考えずに、もっと他人を思いやる行動をしなさい」と言いたかったのでしょうが、私はそうは思わず(笑)、「自分中心」とはどういうことだろう!?とはいつも考えるようになり、それを「主観」と言う意味で捉えて、その反対の「客観的な事実」が重要なのかとなんとなく思うようになった次第です(母の思惑とはずれていたことでしょう)。

そして、中学を卒業する時に、近所の塾の先生にプレゼントされたこの本。



最近はこんな感じにマンガ化までされて書店で大々的に売られてまた話題になっていますが・・・



主人公はコペル君と呼ばれています。天動説を唱えたコペルニクスから取られたニックネームです。この本の重要部分は、天動説から地動説へのコペルニクス的転回、ようするに「他者の視点に立って物事を見なおしてみると世界がまるで違って見える」と言う話でした。

(注)「コペルニクス的転回」の正確な意味は以下の通りです

ドイツの哲学者カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉。これまで,われわれの認識は対象に依拠すると考えられていたが,カントはこの考え方を逆転させて,対象の認識はわれわれの主観の構成によって初めて可能になるとし,この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえた。 (「ブリタニカ国際大百科事典」より)


このことに当時の私はかなりの衝撃と感銘を受けたことを今でも覚えています。と言うか、書店でこの本がまた売られているのを見て、ひさしぶりに思い出しました。塾の先生、私にだけこの本をくれたのは、私が自己中心的なものの考え方をしていることを見抜いていたのでしょうか!?

それはともかく、その後に高校生になった私は「主観ではなく客観」と言うものにこだわっていました。

そして高校では、政治や宗教のもととなる考え方を理解する基礎となる学問である、「哲学」について「倫理・政経」と言う科目でちょっとだけ習いました。

この科目が私にはものすごく面白く、かなり好きでした。最初にプラトンなどの哲学が出てきますが、そこで重要な価値とされているもの、人間の理想としての普遍的な価値とは「真・善・美」の追求です。

しかし、当時の私は「善」と「美」は主観や好みの問題・主観的判断にすぎないだろう!?だから追求するのは客観的に決まる「真」しかない、程度の発想でしたので。

あとは、小学校の頃から理科が好きだったので、自然科学を学ぶことを選びました。とりあえず自然科学であればどの分野でも、人間の思想とは関係無く、真実がわかるだろうと思ったからです。

ただ、最近は、「客観的な真実」と言うのは、場合によっては自分にとって辛いものであることもわかってきました。事実であるから認めなければなりませんが、認めることは自分の世界観が崩れてしまい、ひいては自我が保てなくなるのではないか・・・

幸い、私はそこまでなりませんが、政治や宗教で特定の思想や信仰を強く持っている人にとっては、間違い無くそうでしょう。

私だって「世の中こうであって欲しい」と言う願望はありますので。でも、現実はそうではありません。そうではないのが普通だと言うことを多くの人にも理解して欲しいのです。でも、そんなこと誰も望んでいないようです。

さらに言えば、そもそもカントの言ったコペルニクス的転回とは、「認識(主観)が対象(客観)に依存するという旧説に対し,対象(客観)こそ認識(主観)により構成されるとする自己の認識論上の転回」のことですから、自分が客観的と思っていることが果たして本当にそうなのか!?と言うことにもなります。

そうなるともう何を信じて何を選べば良いかは不可能になりますので、最終的には主観により決断しなければなりません。

わけがわからなくなったので、ここらでやめましょう。
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