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日本に「リベラル」は見当たらない

最近よく「リベラル」と言う言葉を聞きますが、なんかおかしな使われ方をしています。政治的な主義・主張における「リベラル」の本来の意味と、たとえば「民進党のリベラル派」などと言うときの「リベラル」の意味は違っているように私には思えます。辞書的には「liberal : 寛容な〜、自由主義の〜」のような意味ですが。

日本では主に「護憲派、安保法反対派」もしくは「ハト派」のことをリベラルと言っていますが、本来の意味とは違います。「タカ派とハト派」的な構図は多少はどこの国もあるかもしれませんが、護憲派と改憲派と言う対立軸そのものが、日本独特のものですし、いずれにせよ、世界的には「ハト派」が「リベラル」と一致するとは限りません。

また、リベラルは多様な価値観を尊重するわけですから、自分が「善」と思わないものを「善」と信じる他者とも共生しようと努力する考え方なので、自分の信じる「善」を振りかざして、相手を排除するのはリベラルな態度ではありません。この基準に当てはまるような政治家・言論人等は、ほとんど見当たりません。私は改憲派・護憲派の両方の言論を見ていますが、どちらも相手を口汚くののしり悪者にする人たちばかりです。「多様な価値観を尊重せよ」と「リベラル」なことを言っている人たち自身が自分たちと違う価値観の人を悪として排除しようとしているくらいです。

さらに、「リベラル」ならば「福祉国家」を目指す「大きな政府」になりますし、経済的弱者の救済を優先しますので、逆進性の強い消費増税などするはずありません。財政規律より財政出動を優先するのが他国の「リベラル」です。

ところが、日本の「リベラル」と言われている政治家たちは、自民党とかわらず財政健全化という名の「緊縮財政路線」=「小さな政府」なので、つじつまがあいません。まあ、日本人のほぼ全員が「日本は財政危機」と言うウソを信じているせいで「小さな政府」路線しかなくなっているのかとは思いますが。山本太郎ですらこの財務省発のウソに最近では気づき始めたようですが・・・放射能より怖い放射脳な彼が言うと逆効果なので心配です(笑)。

いずれにせよ、日本のリベラル派と言われる人たちは、おそらく憲法とか安保とかばかりに熱心で、弱者と言ったら差別されているような極端な弱者のことだけ(これも大事ですが)で頭がいっぱい、一般の国民が徐々に貧しくなり中間層が貧困層に転落しているような「地味」な弱者の増加問題には関心が薄いのではないかと思います。ここらへんは、実は世界のリベラル派にも共通しています。そのために、左派のサンダースやメランションだけではなく、右派のトランプやルペンが支持を増やしたわけです。主に先進国で貧しい労働者階級が増えているのに、既存のリベラル勢力は無力です。

それはともかく、日本に本当の意味での「リベラル」勢力は見当たりませんし、世界的にも「リベラル」は退潮ぎみです。では、本当の意味でのリベラルとは何か!?

政治哲学者のマイケル・サンデルは、リベラルな思想=リベラリズムを、政治を行う上での基礎となる価値観(政治哲学)の一種に分類しています。そうした価値観にはリベラリズムの他にも3つあり、順番にサンデルの分類に従って紹介したいと思います。



この本に書かれていることですが、要約はこちらを参考にしました。



政治哲学の基礎となる4つの「主義」

(1)「功利主義」、(2)「リベラリズム」、(3)「リバタリアニズム」、
(3)「コミュニタリアニズム」


人々の「幸福」について何を重視するかによって上記の4つに分かれるようです。その基準は、「幸福の総量」か「権利」重視か「義務」重視かです。



(1)幸福の総量重視
「功利主義」(ジェレミー・ベンサム)

「功利主義」は、個々人の喜びを増やし苦しみを減らすことで、社会全員の幸福の総和を最大にしようという考え方です。一人一人の喜びや苦しみを「量」として把握した上で、喜びから苦しみを引くとその人の幸福がわかる。その量を合計し、最大にするのが正しい行為であり政策だという考え方です。


→「最大多数の最大幸福」と言う考え方だが、二つの点でおかしい。

①「幸福」が定量可能であると考えている点がおかしい。
②いじめが正当化されてしまう。

特に②は致命的で、例えば10人で構成されている社会があると仮定して、その10人全員が幸福度70点の社会は合計700点ですが、例えば10人中の9人が80点で1人だけ0点の社会では合計720点となって、こちらのほうがよりよい社会と言うことになってしまいます。多数がより幸福なら少数は不幸でも良いと言うことになりかねません。



(2)個人の権利重視・その1
「リベラリズム(自由主義)」(ジョン・ロールズ)

「リベラリズム」は、通常の基本的人権として考えられる結社の自由、言論の自由といった政治的自由を尊重するとともに、いわば福祉の権利も重視します。そういう意味では福祉国家の思想ということになります。


→「自由」「平等」「友愛」と言うフランス革命のスローガンに1番近い考え方かと思います。私なりに解釈すれば、政治的には「弱者」=マイノリティの保護や権利の保障などを重視し、経済的には規制や所得再分配などの福祉政策により「弱者」の自由を政府が保障すべきとする考え方になると思います。

つまり、「弱者」「少数者」の自由や権利を政府が保障する(そのため強者の権利は一部制限される)と言う考え方です。当然ながら、強者を規制するわけですから、政府の権力が強くなければそれはできません。「強い政府・大きな政府」路線と言って良いでしょう。



(3)個人の権利重視・その2
「リバタリアニズム(自由至上主義)」
(ロバート・ノージック)

「リバタリアニズム」は、政治的自由とともに経済の領域における自由を重視します。自分が労働によって正当に得た物は自分のものと考えて、所有権を非常に重視しています。例えば、福祉のためとはいえども累進課税で国家が強制的に取り上げることには反対します。規制緩和、民営化の思想でもあります。


→「超」小さな政府の考え方です。政府は個人の価値観や経済活動に干渉すべきではないとの考え方。政治面・経済面いずれも自由放任が良くて政府はなるべく個人や市場に介入するなと言う考えです。

政治面では「リベラリズム」と共通点もあるが(古い価値観や因習・道徳にしばられない自由)、私の印象としては、それよりもむしろ、社会規範の否定、価値観の自由、法律による縛りも最小限にすべきで「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」と言う超個人主義・自由放任主義の考えのように思います。

結局、リバタリアニズムは、リベラリズムと同じく「個人の権利」を重視してはいますが、誰の権利なのかが違い、「弱者の権利」を重視するリベラリズムとは真逆で、「強者の権利」を重視していることになるので、実際はほとんど真逆の思想のように思えます。

この思想は公権力・政府を信用せず、むしろ邪魔なものとみなす思想でもあり、無政府主義に近いように思います。日本で反政府・反権力を唱える人は、その政府・権力を潰して自分に都合の良い政府・権力と取り替えようとしているだけであり、政府や権力そのものを不要とは思っていないでしょう。

リバタリアニズムの基本的な理念は、17世紀のイギリスの政治思想家ジョン・ロックにまでさかのぼり、彼の考え方はアメリカの建国理念の一翼を担っているわけですから、こういう思想が出てきても当然かなと思います。

アメリカで銃を持つ権利を重視するのは、「市民はいざとなったら政府に(武力で)抵抗する権利がある」と言うロックの思想とつながっているそうです。だから銃を持つのは自分の身を守るためだけではなく、政府が市民の敵になるならば銃を手にとって抵抗するためでもあるようです。

そう、アメリカ人は「政府」と言うものを信用していないんですね。元々イギリス政府に抵抗して独立したわけですから、政府はいつか自分たちの敵になるかもしれないとどこかで思っているのかもしれません。なので、「お上」意識の強い日本人にはあてはまらない思想だと思います。



(4)共同体の価値を重視
「コミュニタリアニズム(共同体主義)」
(マイケル・サンデル)

権利を重視する3つ目の考え方が、美徳を中心に正義を考えるやり方です。サンデルはこの考え方です。リベラリズムやリバタリアニズムはあくまでも人権というように個人を中心に考えますが、コミュニタリアニズムは人々が共にあることに注目し、共に考え、共に行動する共通性を重要視しています。

また、コミュニタリアニズムの特徴として「善き生」──善き生き方を考えることが、正義を考える上でも大事、という点が挙げられますね。共通性と善のふたつに注目し、政治の目的を「共通善(何がコミュニティにとって善いことかという考え方)」に置いています。


→サンデルはこの4つめを支持している人です。そして、私も実は日頃から言っていることとは矛盾しますが、この4つめが1番まともかなと思っています。サンデルの本を読むとそうなります(笑)。

コミュニタリアニズムは、直訳すれば「共同体主義」になります。共同体の人々に共通の価値観(正義・道徳など)を重視しましょうと言う考え方です。

ただし、共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わないというような全体主義・国家主義の主張とは違います。

とは言っても問題点もあり、一つは、共同体の価値観に反する者は排除すると言う考え方にもつながるでしょう。

もう一つは、果たして、国家レベルの大きな共同体に、共通の価値観など構築可能なのか!?と言う疑問も当然出てくると思います。

そういう不完全さはあっても、人間は社会的動物であり、お互いに助け合ってしか生きて行くことができない存在、そのようにして発展してきた生き物だと思います。

むしろ、共通の価値観どうしの集団でゆるくまとまって、その最大公約数の最小単位を国家とすべきかなと思います。そして、同じ国民は仲間同士なのだから、助け合うのが当然と考えるのが自然ではないでしょうか?実際、日本人の多くはそのように行動しています。これは、ある種のナショナリズムであり、最近注目されつつある「リベラル・ナショナリズム」と言う考え方に近いと思います。

リベラル・ナショナリズムの立場では、国家は個人の権利を抑圧する装置ではなく、個人の権利を守るための存在であり、少なくとも同じ国民は仲間同士なのだからお互いに助け合うものと言う考え方になります。この考え方によれば、社会保障や福祉政策にともなう累進課税や所得再分配の根拠に、「同じ仲間同士だから困っている人がいたら助けるのが当然で、それを負担するのは余裕のある者の役割」と言えるわけです。

まあ、しかし、実際には難しいですね。特に日本では自分と考え方が違う相手を徹底的に攻撃して排除しようとするのが左右ともにさかんで、国民同士で足のひっぱりあいばかりしています(これこそリベラルとは真逆の態度!)。とても、「同じ国民なのだから」と言うことでまとまるのは難しそうです。だから、党派的にまとまって敵をたたくと言う発想が私は嫌いなのです。

途中から、コミュニタリアニズムとリベラル・ナショナリズムがごっちゃになってしまいました。このへんの区別はまだ勉強不足です。まあ、別に結論を急ぐ必要はないので、もう少し考えてみたいと思います。
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