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信じる者は救われる!?

世の中の人を、「信じやすい人」と「疑り深い人」との二つに分けると、自分はどっちかなあなどと考えることがあります。私は意外にお人好しで結構騙されやすいから、「信じやすい人」のほうなのかなとも思いますが、どうでしょう!?まあ、昔は疑り深かったですが、でも、「疑り深い人」が騙されないかと言うと、かならずしもそうではなく、同じかもしれません。

と言うか、一般的に「疑り深い性格」と言われているものは、他人にたいする猜疑心の強い人のことで、そういう人でも自分の判断は信じていれば、それは本当に疑り深いことにはならないでしょう。

他人を信じず自分は信じるなら、それは疑り深いのではなく、自信過剰もしくは自己中心的な人、と言うだけです。本当に疑り深ければ、自分自身の判断能力ももそう簡単には信じないはずだからです。

他人を信じないが、自分の断定を安易に信じるならば、その人は「信じやすい人」のほうに分類されるでしょう。だから、これはこれで間違いやすかったり騙されやすいと思います。

人間関係のトラブルの大半は相手の言動に対する誤解が原因だそうです。いちおうそういう調査があるらしいです。これは信じるのか!?と言う話になりますが(笑)。でも、自分の判断や認識が正しいと言う保証もないでしょう。

あと、猜疑心の強い人に対して、その「他人を信じない性質」を利用して何かを信じさせて騙すと言うことが可能だそうです。たとえば、「既得権ガー」が良い例でしょう。最近の政治家は自分たちに支持を集めるために、壊してはいけないしくみまでもを「既得権」と言って批判します。社会全般に対する猜疑心の強い人は、そういう政治家を改革者と勘違いして支持し騙される訳です。小泉改革が良い例です。

自分は疑り深いと思っている人のほうが騙されやすいと心理学的に証明されている、と言う話もどこかで聞いたことがあります。またまた、その話は信じるのか!?と言う話ですが。

本当の意味で「疑り深い人」で思い出すのはやっぱり哲学者のデカルトでしょうか。高校時代に習った「倫理・政治経済」と言う科目の中でデカルトについての説明がありました。



このデカルトと言う人は方法序説と言う著書の中で「一切を疑うべし」と言ってました。こいつは本当に疑り深いやつだなと思った記憶があります。まあ学問ですから。疑うことが学問の出発点になると言うのはよくあることです。

「一切を疑う」思考方法のことを「方法的懐疑」と言うらしいですが、wikipedeiaを要約しますと以下のようになります。

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。

“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。



高校時代にこれを習って、最初はなるほどと思いましたが、しかし自分の意識と言うものが一体何かと考えると、「自分はなぜここにあるのか」と考えることがどうして存在の証明になるのか、またまたわからなくなります。少し飛躍があるようにも思います。

と言うふうに、本当にすべてを疑うと何も信じられなくなり、かえって思考停止してしまいます。

信じると言うことは決断して先へ進むために必用なことで、何も信じない=他人だけでなく自分すらも信じないのでは生きて行けません。

まあ、でも一般に「疑り深い性格」と言えば、他人の言うことを信じない性格、他人を疑う性格と言う意味でしょうから、ここでは、本当に疑り深い性格=他人も自分も信じない性格と定義しておきます。

なので、本当に疑り深い人と言うのは、表面上見えるものをそのまま信じず、だからと言って証拠が不十分なうちは何の判断しない人だろうと思います。でも、そんなのは不可能に近いでしょう。何かしら判断しないとどうにもならない場合もありますし、判断せず保留しつづける、わからないままにしておく、と言うのは結構なストレスです。

判断しないと生きて行けないだけでなく、判断せず保留にしておくことそのものがストレスになるわけです。

人間と言うのは、何かわからないことがあって、それをわからないまま考え続ける、判断材料を探し続ける、と言うことが苦手なものだと思います。人間の脳はエネルギーを節約しようとしますから、あれこれ考え続けるより、適当に判断してしまうものでしょう。だから、疑り深い人も、人と違った解釈をするだけで、結局その結論が正しいかどうかはわからない。断定の仕方が雑だとかえって間違った結論にとびついているかもしれない、だから間違えやすい、騙されやすいと言うことなのかなと思います。

簡単に結論に飛びつかづに考え続けると言うこともかなりエネルギーのいる作業なのだろうと思います。そういう時は、他人か自分かのどっちかをさっさと信じてしまうほうが楽でしょう。信じる者は救われる、と言うのは本当なのかもしれません。

実を言うと私は、自分自身もあまり信じていません。あてになりません。だから思考がフリーズしてしまうことがよくあります。考えないようにすることもあります。これは、場合によっては良い方法です。昔はこれができなかったから苦労しました。

日常生活で何を信じるかについては、まあ適当で良いでしょう。昔は科学や医学の分野ですらデタラメがまかり通っていましたから。政治学は価値観ですから真偽とは別の要素があるかと思いますが、経済学なんかはいまだにデタラメが主流派をしめていて、社会に害悪をまきちらしていますが。



ちょっと前まではデタラメが結構あった医学の分野では、最近はそういうのはかなり排除されて急速にマシになっています。

最近の医学では「エビデンス」と言う言葉がよく使われていて、もともと「根拠」とか「証拠」とか言う意味の単語ですが、医学の分野では「科学的根拠」のことです。正しい方法で行われた実験や観察と統計的手法により導き出された根拠があるかどうかです。

でも、もちろん、まだそうでなないものも残っていますが。



この方が巧妙だなと思うのは、こういう本も出しているんですよね。



そして、インフォームドコンセントで、最終的には患者自身、あなた自身が判断してくださいと言う方法に持って行くわけです。それでひどい目にあっても、信じた自分(患者)が悪い、信じてしまった以上は訴えることもはばかられると言うわけです。インフォームドコンセントと言うのは、医師の責任を軽くして、そのぶん患者自身に負わせる責任を増やすと言う側面もあります。

そして、この先生も、お得意のフレーズは「医学会の既得権」です。だから、何かと言うと「既得権ガ−」な話をすぐ信じる方々は要注意です。マスコミ関係者は、なんでもすぐ「既得権ガー」な話に持って行きたがりますし、「既得権ガー」と言えばみんな信じて買いますから、売れるわけですね。「B層」を信じさせるのには一番手っ取り早い言説なのです。

民営化と小さな政府で責任を切り離して自己責任の社会。既得権を批判することで騙して支持を集める・・・まるで新自由主義の政治家と同じですね(笑)。

いずれにせよ、この方の理論はエビデンスが無い言説、もしくはエビデンスをゆがめて引用しれていると批判されている治療法です。信者の方々から突っ込まれると面倒なので、こちら参照。



どちらがまともな思考にもとづいているかは、私ならば下の本と答えます。

あと、エビデンスが無い、一部の医師の説にすぎないものと言って良いレベルのものに、こういうのもありますね。



まあ、カロリー摂取も減るから痩せるのは間違い無いでしょうが、特に、安全性に関するエビデンスはないでしょうし、糖質が本当に不要だと言うことのエビデンスも無いと思います。だからこれは一医師が言っている「仮説」にすぎないと思われます。それを信じるのは、ちょっと「信じやすい人」でしょう。いや、ちゃんとしたエビデンスがあると言う方がおられましたら、その論文を教えて下さい。

まあでも世の中を飛び交う言説において、エビデンスのあるものはむしろ稀です。テレビ番組で、よく、事実かどうか科学的に検証・・・などとやっていますが、ほとんどが正しい方法で行われていません。論文審査ならreject(却下)です。

それなりのサンプル数と対照と実験回数が必用で、最終的に目的のサンプルと対照との間に統計的に有意な差があるかどうかを判定しなければなりません。そういう実験を一種類だけではなく色んな角度から検証してはじめて、科学的根拠にもとづいた結論が導き出されるわけです。

釣りで釣れるかどうかも、エビデンスを重視したほうが良いでしょう。

こうやれば釣れる!みたいなことを1回や2回試しただけでは証明されたことにはならないと言うことですね。その点、船頭さんは毎日出船していろんな状況を見て経験が蓄積していますから、色々試してもいるしサンプルも豊富だから統計的に意味のある結論を導き出せるわけで、従って、経験豊富な船頭さんの言うことはエビデンスに基づいていると言って良いかと思います。
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