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「私刑(リンチ)社会」と中世化

未だにベッキーの不倫騒動をひっぱってますねー。味のしなくなったガムをいつまでかみ続ければ気が済むのやら・・・。

それにしても、有名人のスキャンダルや失言をやたら叩きまくるのが私には理解できません。マスコミが叩くのは社会的制裁です。制裁するならそのための「基準」を決めて「弁護する人」と「追求する人」と「基準に従って裁く人」が必用になると思います。

そんなの無視して、多数者の道徳観やら世論やらをたてにして叩く=制裁を加えることが横行するなら、それは中世的、封建的な私刑(リンチ)社会でしょう。

ベッキーの話を例にとれば、もちろん不倫は良くないでしょうが、基本的には家庭やプライベートな問題ですし、被害者は配偶者や家族ですから、それらの人たちが許せば被害者はなしと言う場合すらあります。また、長年別居していて、事実上の夫婦関係が破綻している場合もあります。

要するに、不倫がどの程度悪いかは、ケースバイケースです。そもそも不倫を取り締まる法律はありません。

それを、不倫が道徳的に悪いと思っている人(ここには私も含まれる)のうち、物事を単純化してしか考えられない人や、他者本位の人(私は含まれない)が大きく騒いでいるのではないでしょうか

法律違反を罰する場合は法によって裁かれ、その結果として刑罰が決まります。軽い罪には軽い罰が、重い罪には重い罰がです。

しかし、「法律違反ではないが道徳的に良くないこと」の場合は裁く基準もあたえられる罰も何も決まっていません。

法律違反でないことをひたすらマスコミが叩きまくるのは、社会的制裁を加えていることと同じです。

そして社会的制裁と言うのはちゃんとした基準も無いし、公平性も客観性もありません。

なんとなしの空気みたいなもので決まっています。同じことをやっても他に大きなニュースがあればすぐ忘れられたりもします。罰が一定ではありません。

こういうことをえんえんとやり続けると言うのは、はっきり言って「法治国家」とは言えないのではないでしょうか?

もちろん、私は法律がすべてとか、法律に違反しなければ何をしても良いと言う意味で言っているのではありません。

でも、社会的制裁とは言え、人を裁く、罰を与えるからには、ちゃんとした基準を決めて(それも事前に決めておいてから)裁くべきだと言っているのです。

ひたすら「みんなの何となしの道徳観、倫理観」みたいなものでいつまでも叩き続ける社会はおそろしいと思います。それを世論と呼ぶに至っては、民主主義の自殺に等しいのではないかと思います。

不倫がけしからんと言うなら、何故それを罰する法律がないのか、必用なのか不要なのか、そういうことをまず考えてみるのが先でしょう。

そんなことを考えたこともない人間に、騒ぐ資格が果たしてあるのでしょうか?

なんか話がそれましたが、とにかく私が一番嫌いな思考パターンである「みんながやっているから」と言うのは、明日に書く漱石流の個人主義から言えば、よろしくないものであると思われます。

時代は進んで進歩しているように見えても、実は後退して中世に逆戻りしているのではないかと思うことがあります。

マスコミやネット上で行われる、私的制裁と公開処刑の横行などがその典型だろうと日頃から思っており、思わず書きました。世の中、進歩だけでなく、退化している部分もあるのです。

今の日本や世界はいろんな点で中世に逆戻りしていると指摘している人の文章を引用して終わります。

グローバル化は中世化

(前略)

このように、TPPなどグローバル化の中で進む日本の農業改革も、一種の中世化かもしれません。中世ヨーロッパで見られたような、大地主と農奴の再現といったら少々言い過ぎでしょうか。

こういう「中世化」というか、歴史の逆行のようなものは、他のところでもいろいろと見られます。

国家戦略特区でいえば、例えば「解雇規制の緩和」や「労働時間規制の緩和」(残業代ゼロ)などの労働規制の緩和の流れもそうでしょう。

高校生のころ、「現代社会」や「世界史」の時間に、労働者の権利や社会保障受給権などを総称して「社会権的基本権」ということを習いました。また、社会権的基本権は、20世紀になって定められたということで、「20世紀的人権」ともいうと学びました。

私の高校時代は、1980年代後半でまだ20世紀でしたので、「なるほど、社会権的基本権とは、新しい、現代的人権なのだな」と思っていました。

しかしこれ、21世紀になった今あらためて考えてみると、「20世紀に徐々に認められてきたが、21世紀になるとだんだんと削減され、なくなっていく」という意味で、労働者の権利などの社会権的基本権は「20世紀的人権」と呼ばれているのだと理解したほうがいいかもしれません。

経済のグローバル化が進み、資本の国際的移動が自由になると、各国政府は、資本の海外流出を避けるために、あるいは外資を呼び込んでくるために、グローバル企業が「ビジネスしやすい」環境を作ろうとします。つまり、グローバル企業に都合のいい環境を作っていきます。そこで、各国は、労働者の権利や社会保障を徐々に削っていくのですね。人件費も削減されますので、労働条件は、悪くなっていきます。

これも、「中世化」への流れの一つとみることができるでしょう。

こう考えてくると、最近、自民党が、「移民受け入れの議論を始めるべきだ」と言い始めているのも、この流れのもう一つの現れといえそうです。

近代社会とは、一般庶民が、社会の中心メンバーとなり、自分たちの言語や文化のうえに国を作り、民主主義の下、国を運営していく社会です。つまり、各国では、人々が「我々は同じ国民だ」という連帯意識を持ち、「自分たちこそ社会の主人公だ」と考え、政治を動かしていくわけです。

しかし、経済のグローバル化の名のもと、移民を大規模に導入すれば、こうはいきません。一般的に、国民の連帯意識は薄れ、団結が難しくなります。人々はバラバラになり、政府に意志を伝えにくくなります。

移民受け入れを推進する側の狙いの一つは、このように、移民を受け入れることによって、国民を分断し、連帯しにくくすることだともいえるでしょう。国民の連帯を分断すれば、政治に文句がつけられることが減りますので、労働者の権利や福祉の削減、人件費の引き下げ、移民のいっそうの受け入れなど、国民に不人気な政策が、その後、やりやすくなります。

また、各種の社会保障などの福祉は、おおもとでは、国民の相互扶助意識に根差しています。つまり、人々のもつ「同じ国民だから、助け合おう」という意識こそが、福祉の基本にあるものです。

移民を大規模に導入することによって、国民の連帯意識を壊してしまえば、社会保障を減らしていくことは、ますます容易になっていきます。

実際、近代社会の成立の一つの前提は、国民意識の確立でした。国民の連帯があってはじめて、民主主義や福祉(平等)も成り立つのです。

以上のようにみてくると、やはり、「グローバル化は中世化」と言えるでしょう。

一方には、英語を操り、土地に縛られず、愛国心も持たず、世界を飛び回って大金を稼ぐごく少数の「グローバル・エリート」がおり、他方には、社会の中心から排除され、(英語で構築された)知的な世界から切り離されて自信を失い、低賃金でこき使われ、打ちひしがれ、バラバラの大多数の一般庶民がいるという世界です。

「グローバル化」って言葉、本当に最近、ますますいやになってきました…

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