2008年03月27日 (Thu)
世の中のいろんな物事や価値観について、中学の頃から私は議論好きで、いつもまわりには同じように議論好きな友人がいて、意見の違いからよくケンカしたりもめたりもしましたが、ともかく常に色々と議論をしていました。政治や宗教から生と死、人生についてとか、恋愛、男女関係、猥談に至るまで、それこそタブー無しです(笑)。
それが、大人になってから、なかなかそういう「遠慮無しの議論」ができる友人にはめぐりあえないというような話を先日書きましたが、これには私のほうに大きな原因があります。
もちろん、私の意見というのは、だいたいが何かに対する批判が中心になるので、ふと何かを批判した時に、思わぬところにその関係者がいたりして不愉快な思いをさせたり、やたらと物事に批判的なアブナイ奴と敬遠されたり、相手の価値観と衝突して感情的になられたりなどというようなことがあまりに多いので、いつしか私は人と仕事以外で議論するのを避けるようになりました。
ブログでは勇ましい口調で断定的に書いている私ですが、日常生活では他の人と意見が違っても、「あー、そうですよねー」などと調子の良いことを言ってしまい、後になってこのブログで「いや、そういう考えはイカン!」なんて書いたりしているという情けない状態なのです。
いつまでも子供ではいられないから仕方の無いことですが、子供のように素朴に自分の意見をぶつけたり主張したりできる人がうらやましいと思います。そういう人は強いんでしょうね、やっぱり。私はせいぜいこの場でいきり立つくらいの事しかできません(涙)。
2008年03月27日 (Thu)
独創力とは何か、それがテーマの番組を見たと言う話を昨日書いたが、どうもあの番組ではまともな論点で論じられていなかったようなので、私なりにおちついて考えてみた。
(個人の持つ)独創力を考える場合には、それとセットで(社会を支配する)固定観念というものについてもあわせて論じなければならないと思う。
独創力というのは、辞書的な意味で言うなら、「人の真似ではなく自分独りの考えで独特のものを作り出すこと」ということのようだ。しかし、これでは独創と独特の区別がつきにくいから不十分な定義だと思う。
個人の発想によって社会の固定観念をゆるがすような場合を独創と呼ぶのが適切だと私は思うし、先日の番組で教授らが「独創的と思う」としてあげた人物たちも、だいたいがそういう業績をあげた人たちだった。
ただ、学生アンケートで1位だったのは、イチローだったが、これは前に書いた理由でちょっと違うと思う。
学者先生がたが上げたのは、ゴリラの行動の研究者は今西錦司 を、発生生物学者はメンデルを、火山・地質学者はウェゲナーをそれぞれ挙げた。
私が勉強させてもらっている社会思想史の学者は「特になし」だったのは笑ったが・・・。
科学の分野での独創力を持った人物というのは、わりとわかりやすい。それまでの科学の常識として信じられていたものが、実は事実ではなく、固定観念にすぎなかったということを見いだした人である。
生物の遺伝に規則性など無いという固定観念が支配する世の中で、遺伝子という概念にたどりついたメンデルも、大陸というものが動くはずが無いという固定観念が支配する世の中で大陸移動説を唱えたウェゲナーも、どちらもその後に正しさが証明され、彼らは独創的な人物であることがわかった。
誰も言っていなかったが、ダーウィンも独創的だろうと思う。当時は生物の種というのは神が天地創造によって作り出した被創造物であり、不変であると信じられていたところに、種の進化のメカニズムを発見した。
さらに言えば、ニュートンもそうだろう。
ニュートンで思い出したが、爆笑の太田がやはり勉強不足と思ったのは、ニュートンが万有引力の法則を発見したのは、リンゴが木から落ちるのを見て・・・と言っていたが、これでは50点以下の回答である。
リンゴが木から落ちるのを見て、地球には引力があるなんて、ニュートンじゃなくても誰でもわかるし、それだけなら何の発見でもない。
ニュートンが偉かったのは、もっと徹底的に考え抜いたからである。
木の高さからだとリンゴは落ちるが、もっと空高くからだとどうなるか?
たとえば、月の高さまで持ち上げるとどうなるか。そもそも、月は何故地球に向かって落ちてこないのか・・・
そこまで考えて、月が地球に向かって「落下」してこないのは、地球の重力と月が地球の周りを回ることで生じる遠心力とな釣り合って、月は地球の周りを回ることによって落下しないということに思いを至らせ(これとて、かなり大雑把でいい加減・不正確な説明だが・・・)、それを数学的に表現することで「万有引力の法則」の発見に成功したのだ。
そういうことも知らないで、よくもあんな口の利き方をできたものだ。議論に加わるにも資格が必要だろうと思う。京大で勉強するには京大の入学試験にパスしなければならないのと同じく、ああいう場で議論するには、やはり議論に必要な最低限の礼儀と最低限の良識くらいは身につける努力くらいしておくべきだと思う。
それに、学問をする上で一番大切なのは、「無知の知」つまり、自分にはたくさん知らないことがある、もしかして自分は間違っているかもしれないということを知っているという謙虚さである。
私はいつも断定的な口調でばかり書いているが、誰よりもそのことをわかっているつもりである。
話をもどすと、固定観念というのも、しかし実はあまりバカにしてはいけない。
自然科学の分野においては、固定観念というのはどんどん改められるほど良いが、社会科学の分野においてはそうとは限らないところがある。
社会思想史の教授も言っていたが、社会科学の概念というのは、自然科学のように検証することが不可能である。
だから、何が正しいのかわからない。マルクス主義も間違っていたし、固定観念(イデオロギー)にすぎなかった。今のアメリカ流の経済学も、おそらく同じ可能性がある。
しかし、だからと言ってすべての固定観念、宗教や歴史的価値観や文化にまつわる固定観念までも否定してくつがえすような、そういうことを急激にやって良いかどうかとなると、かなり疑問である。
だから、社会科学の分野においては、あんまり独創的なことをやるのは、非常識の奨励になりかねない場合があるし、いたずらに社会を混乱させるだけということにもなりかねない。
独創性というものをむやみやたらと持ち上げるべきではないのだ。
2008年03月27日 (Thu)
もっとブログではじけてくれ!というリクエストを頂いたので、誰かに遠慮するのはもうやめて、メジャーファンから嫌われることを覚悟の上で、今日はもうやけくそで書くことにした(笑)。
このところ、テレビではメジャーの開幕戦を放送しているようだ。どうやら日本でやっているようで、ちょっと目についてしまった。
私は昔は熱狂的に野球が好きだったが、最近はプロ野球もプロ野球選手の大半も嫌いになってしまい、中でもメジャーは大嫌いなので、普通ならばまず絶対に見ないのだが、テレビのチャンネルを落ち尽きなくひっきりなしに変えるという悪癖があるため(最終的にはテレビを消す)、たまたま目についた。
そして、ふと見ると、ベンチにいるマツザカのアップだった。その時の松坂のあまりの醜い様子に、大きく失望した。というか、もともと何の期待もしていなかったのだが、あらためて唖然とした。
薄汚い茶色とも何ともつかない色で染められたあの頭髪。口には意地汚くガムをほおばり、ひっきりなしにくちゃくちゃと音を立て、チンパンジーの如く落ちつきなくアゴを動かしている。
またメジャーでは、ガムを噛むのをやめたかと思うとひまわりの種かなにかをほおばり、その残骸をそこらじゅうに吐き散らかすみっともなさ。何だろうかこれは。
彼みたいなのに、ただメジャーで活躍しているというだけで、最近の野球少年達があこがれているのかと思うと、正直、絶望的な気持になる。
朝青龍にしてもそうだが、勝負に勝ちさえすればあとは何をしてもどうふるまっても良いなどという風潮に、一体いつから日本人は染まってしまったのか!?
まあ、外国人の真似ばかりしたがる習性というのがあるのかもしれない。
マツザカにしても、メジャーリーガーに憧れるあまり、彼らのやっている醜い行為まで真似せずにはいられない、そういうみっともなさを格好良いと勘違いしている愚かさは、見ていられない。
自らすすんで日本人としての美風を捨て、二流アメリカ人になることに喜びを見いだすなさけない男。それがマツザカの、いや、戦後日本人の一般的な姿かもしれない。
二流アメリカ人、二等白人みたいにふるまって喜ぶ日本人はかなり多いし、マツザカがもてはやされる限りは、そういう人種が今後も増殖して行くことだろう。
しかし、アメリカ人に自らケツの穴を差し出すような真似だけはやめて欲しいものだ。
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