2007-01

大事なことは・・・

世間は柳沢厚生労働大臣の「女は働く機械」発言で騒いでいて、これについては言いたいことがあるのですが、長くなるのでやめておきます。

たしかにこの発言はあまり上等なものではありませんが、政治的に言えば、民主党の角田議員の北朝鮮工作機関からの献金問題や、自民党の一連の事務所経費問題などのほうがはるかに重大だと私は思います。

もしかしたら、与野党ともに大臣の発言で騒いでいるのは、自民・民主共闘のある種の隠れ蓑作戦ではないかしらと思ったりして。

そういう隠れ蓑と関係ない社民党が鬼の首を取ったかのように特に騒いでいますが、これはむしろ近い内に尻窄みになるのではないかという噂です。

永田町では今「どうもある週刊誌が社民党のM幹事長女性スキャンダルを載っけるらしいよ」という噂でもちきりだとか。元ネタはマイナーな地方雑誌に4〜5行のったことがある噂話で、真偽は怪しいかもしれない話みたいですが。

いずれにしろ、与野党が人気取りと足のひっぱりあいに熱中することによって、国民が愛想をつかして政治家以外の人たちに希望を求めてしまうという事が政党政治にはつきまといがちです。

政党政治というのは、政党どうしがお互いに権力闘争に走り、足の引っ張り合いをする傾向が強く、スキャンダル合戦になりがちなのです。これは世界的にもそういう傾向が強いようです。

そして、戦前の日本でも同じ様な有様で、政党どうしが権力闘争に明け暮れ、スキャンダルの暴露合戦を行っており、政治家は国民の暮らしをそっちのけで金権腐敗していると反感を買っていました。マスコミがまたそういう事を煽ったりもしたわけで、その点も現代と同じでした。

政治不信が極度に高まる中、政党に代わって国民の支持を広げたのは、軍部でした。軍人には選挙権・被選挙権は与えられていませんでした。

当時、政治から見捨てられていた地方の農家は貧困にあえいでおり、その窮状を救おうとして、一部の軍人らが農民救済のために立ち上がって5.15事件をおこしたり、天皇親政を求めて2.26事件をおこしたりして政治家たちを攻撃したわけです。

それらのクーデターは成功しなかったものの、政党への不信感を強めていた国民は、そうした軍人らの行動を熱狂的に支持して、その結果、軍部が台頭して行ったわけです。

だから戦前は軍部の独裁などではなく、まぎれもなく国民が広く軍部を支持したからこそ軍部が台頭して議会政治が形骸化していったのですが、そんな事も知らない人は、「戦前は軍部の独裁で戦争をしたから悪いのは軍部だけで国民はむしろ被害者だった」などと言ってのけるわけです。

そして戦後は軍部はないわけですから、政党政治への不信はダイレクトに投票率の低下につながったり、またはタレント議員あたりへの過剰な期待へと走らせるのかもしれません。まあ今の政党を見ていると、そういう気持ちもわからないでもなのですが・・・。

政党や政治家に期待できないのなら、身近なことから政治の責任を自分たちで引き受けようとする、そんな人たちはほとおんどおらず、いても一部の極端な思想の方々だけだったりという有様で、普通の国民はただ私のように不満を抱き文句を言うばかりというていたらくです。

指をくわえて見ているしかないのか

数日前から五ヶ所湾に暖かい海水が入ってきたとかで、水温が12℃から17℃まで一気に上昇して、釣り堀で爆釣しているとか。

釣果報告をただ指をくわえてみているしかないわたし。

有給休暇というのがたっぷり残っていて、あと37日休めることになっているし、3月末までに使わないと、そのうち20日だけ残してあとは消えてしまうことになっている。

有休休暇というのは、建前としては自由に使える話にはなっているものの、それを権利だと主張して自分の都合だけ考えて休むわけには行かないのはあたりまえの話だし、多い人でも1年で10日も使わないだろう。

むしろ、休んだぶんだけ給料が減るということにしてくれたほうが、休みを取りやすいとすら言える。

そもそも、休むためにはまず自分の仕事の都合をつけてから、さらには上と下をながめて見なければならない。

自分の仕事の都合はある程度つけられるものの、周囲の状況を見てみると、今は平日に休みを堂々と取れるほどには余裕がある雰囲気だとは思われない。

いや、そんな時でも下の人間は平気で休みを取ったりするし、さらに別の者などは「もっと給料の良い職場がみつかったから」と言って仕事の引継などということを一切無視して突然やめてしまって(今の仕事に不満があったり人間関係でもめた訳でもないのに)、職場を大きく混乱させたりするのは平気、などという事もある。

だから俺だって好きな時に休むぞ、と言いたくなりもするが、皆がそういう行動に走ってしまうと、職場が乱雑な空間になってしまう。

まあ、休める時は躊躇なく休むが、今がその時ではないというのは、とてつもないアンラッキーだった。

イカダの中の在庫はいつまで持つのだろうか。当分釣り堀に行けそうな予定はない・・・。

「選択の自由」という不幸

昔の人は生き方を選べなかったとよく聞きます。

生まれながらにして職業や結婚相手が決まっていたり、世の中の価値観も限られていたからだそうです。

その結果、生き方はおのずと決められていて、その範囲内で精一杯生きるしかなかった訳でしょうが、それが本当に不幸なことだったのでしょうか?

もちろん不幸につながった場合も多々あった事でしょう。

それに対して、現代は何事も選択の自由が認められ、価値観も多様化した世の中、多様化しているのが善しとされる世の中です。

しかし、それは果たして、現代に生きる我々を幸福にしてくれたのでしょうか?

能力のある人、迷わず決断できる人は幸福になれたでしょう。でも大多数の人間にとってどうかとなると、微妙なところだと思います。

選択の自由ということは、いくつかある中から選べるということですが、選択肢がたくさんあると、むしろ迷って選べないということになりがちです。一つを選べば、後は捨てなければならないという事でもあります。

何か一つを選べば別の可能性を捨てなければならないわけです。そこで、どちらも捨てたくないと思う欲深い人間は、結局のところ、選択に迷うわけです。そして、人間とはえてして欲深い存在なのです。

また、自由に選んだその結果の責任はすべて自分にあるわけです。あらかじめ決められていた人生ならば失敗の責任を「不自由のせい」にできますが、自分で自由に決めたことならば、失敗すれば誰のせいでもなく自分のせいでしかありません。それはそれで、やりがいのある人生かもしれません。

ただし、自分で選んだ生き方だからと言って、その結果かならず幸福にたどり着けるという訳でもありませんし、決められた枠内で生きたとしても、人一倍幸福に暮らせることだってあり得るのです。

選択の自由などなかった昔ならば、例えば、女性は年頃になれば結婚して家庭に入り子供を産んで育てるしかなかったわけです。それはもう、考える余地もなく世の中の常識であり誰しもそれを望んだために、迷わずそうして、そういう生き方の中でよりよく生きるしかなかったわけです。

それが、どこまで不幸なことだったのでしょうか?多くの女性はむしろ幸せに生きたのではないでしょうか?

ところが今や、女性は仕事か家庭かを選べる時代になっています。これで女性が幸せになったのでしょうか?まあ幸せになったと思う女性も多いことでしょう。

しかし、選択の自由があるということは、裏返せば選択しなければならないということです。

仕事か家庭かどちらかを選ぶ、どちらか選べばどちらかを捨てなければならない、どちらも捨てたくないならば、仕事と家庭の両立を目指すしかない。

そう決断して、それを完全にこなせる女性が果たしてどれだけいるものか。むしろ、苦しみを増やしているだけではないかと思いますが、そのような事を言うのは「女性の権利をないがしろにするとんでもない発言」とか「価値観の多様化を阻害する乱暴な言動」ということで、フェミニストたちから目の敵にされるというわけです。

いや、これはたまたま女性の家庭と仕事ということを一つの例に出しただけであって、何もその事だけを言っている訳ではありません。

たとえば、今は自由に恋愛して結婚相手が選べるわけですし、そういう世の中のおかげで、私などはすばらしい伴侶に恵まれた訳ですが、しかしこれは限りなく奇跡に近い幸運と偶然に恵まれたからであって、一人の伴侶にめぐりあうまでの私は、かなりの紆余曲折を経て苦節を重ねたわけです。

この相手もよいが、もしかしてもっと良い相手が今後現れるかもしれない。この相手に決めてしまうと、もっと良い相手にめぐりあう可能性を捨てなければならない。まあ私はそうは思いませんでしたが。

最近の、特に女性の晩婚化の原因は、一人の相手を選んで決断してしまうと、他の選択肢を失ってしまうこになり、それが怖いから、という側面があるのではないでしょうか?

男女の区別を関係なしに、選択の自由や価値観の多様化によって充実した人生がおくれるのは、特別な幸運に恵まれ、才能や決断力に富んだごく一部のすぐれた人だけにおとずれるラッキーな例外にすぎない、とまで言えば言いすぎかもしれませんが。

いずれにしろ、私のような凡人にとっては、人生を振り返って見るとき、選択の自由というのはむしろ欲望をひたすら増幅させて迷いや苦労を増やす事につながってしまう、そういう傾向が強いのではないか、そんなふうに最近は思います。

いのしし肉

先日、ぼたん鍋を食べたところですが、今回、YUKAの姉夫婦の知人から、いのししの肉をいただきました。1キロ。

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今年は猪年でもありますし、妙に猪に縁があるようで。でも十二支はあれは本来、時刻を表すものであって、動物とは関係ないらしいですが・・・。

それはともかく、とりあえずは薄目に切って鉄板で焼いて、塩コショウしてレモン汁で、つまりタン塩みたいにして食べてみました。

美味しかったです。臭みなど一切ありませんでした。でも脂はすごかったですが。

私は物珍しい食べ物はどちらかと言うと苦手な事が多いのですが、シシ肉は好物のようです。

温暖化で思い出した旧友のこと

それにしても今年は暖かい。

地球温暖化については私が子供の頃、つまり30年くらい前からすでに言われはじめていて、たしか中学の頃、この問題について友人と激しく論争した覚えがある。

当時の私はとにかく論争好きというか議論好きで、暇さえあれば友人に議論をふっかけて、あれこれ屁理屈を言い合っていたのだが、政治や宗教の他、関東大震災や富士山噴火とか地球温暖化などについてよく議論していた。

議論の前提となる知識もないのに、よく議論になったものだと思うが、まあ子供だったから。

それで、私は「地球温暖化は嘘話である」というスタンスでずっと論争して、間違っていたら10万円払うと約束した記憶がある。

ちなみにこの友人には「数年以内に富士山が噴火する。関東大震災も起こる。もし噴火しなかったら10万円払うし、関東大震災が来なくても10万円払う」という約束や、「俺は一生結婚しない。もし結婚したら10万円払う」という約束もしており、これだけで合計40万円も彼に払わなければならないことになっている。

彼がそれを思い出して突然請求にあらわれたらどうしようかと、いつもビクビクしている(嘘)。

あの頃は良かったなあ。どんなに本音をぶつけて議論しても引かれてしまう事もなかったし、何でも議論できた。大人になるとそういうのはやっぱり無理なんだろうなあ。変な人と思われて終わりだし。

それでそういう関係が高校卒業まで続き、彼は無事、札幌にある教育大(音楽)に合格、一方の私は同じく札幌にある別の大学の理学部に不合格、ここしか受験していなかったので、浪人することになってしまった。

彼は入学と同時に酒と麻雀におぼれるすさんだ生活にはまって行き、浪人生活をしていた私をそういう生活にひきずり込もうとした。

私は酒も麻雀も興味がなく、彼とは高校時代までと同様に、音楽や社会問題や政治や人生について色々と議論したいと思っていたのだが、そういう事には関心がなくなったようで、本当にすさんだ生活をしていた。

部屋にはビールの空き瓶が散乱し、夜中にピアノを弾きまくって近所から苦情の張り紙をドアにべたべた張られたり、夜に起きてススキのを彷徨い、昼に眠るような生活をしていた。

それはそれで、人生の一時期にそういう生活を体験しておくのも良いかなあと思い、私も少しそれをうらやましく見たりもしたのは確かだった。

しかし私は大学生ではなく浪人生だった。浪人してしまった以上は、それを挽回するためにもということで、かなり無茶な志望校を狙うことを覚悟したため、極度に禁欲的な浪人生活を送るしかなかった。だから自分が大学に入るまでは彼とつきあうのは危険だということで、しばらく連絡を絶つことにした。

その後、私がどうにか大学に滑り込むことができた時点で、ふと思い出して彼に連絡をとってみようとしたところ、連絡がとれなくなっていた。彼の実家も引っ越してしまっていた。高校時代の共通の友人に聞いてみても、彼の消息を知るものはいなかった。

それで、それっきりにしてしまうところが私の薄情なところというか、ダメなところなのだろう。数少ない友人を失ってしまった。関西と北海道という距離もあるし、学生時代の私はほとんど田舎に帰らなかったから、高校以前の友人らとは、なおさら距離ができてしまった。

それでも、数年前に高校時代の同窓会があり、私は出席できなかったが、出席した他の友人に電話で彼がどうしているかを聞いてみたが、同窓会にも参加しておらず、彼の情報は得られなかった。

今頃どうしているのか、私の事をまだ覚えているのだろうか?

スーパーマン・リターンズ

「スーパーマン・リターンズ」を借りてきて見ました。

スーパーマン リターンズ スーパーマン リターンズ
ブランドン・ラウス (2006/12/22)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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以前のスーパーマンは、確か俳優が落馬事故かなにかで出演できなくなって続編が作られなくなったと聞いたような記憶があるのですが、正しかったかどうか。

あの頃の古いスーパーマンの続きで、その5年後という設定みたいですが、一体いつの時代なのか見ていて不思議な感じでした。

それより何より不思議なのは、旧作でも思ったことなのですが、スーパーマンほどの人物(人間じゃないか)が、どうしてこの女(ロイス・レイン)に惚れたのか、さっぱり理解できないという点です。

今回のを見ても思いましたが、かなり自分勝手な女性だと思います。まあ新聞記者ですからああいう性格なのかもしれませんが。

私は子供の頃からSFが好きでしたが、メカが出てきてリアリティーのあるものが好きだったので、スーパーマンはあまり興味がありませんでした。

しかし、ここまで映像がリアルになってくると、それだけで面白かったです。ただ、映像技術だけでは、見た後に残るものはあまり無いので、そういう何かが欲しかったです。

この映画の登場人物で人間的に一番立派なのは、ロイス・レインの夫(同棲相手?)だと思います。

眺めの良い露天風呂

さて、和歌山市内でラーメンを食ってから、加太方面を目指してのんびりと車を走らせます。

道が結構空いていて、わりとすぐに着きました。

休暇村 紀州加太

ここは宿泊施設ですが、風呂だけに入ることもできます。500円とお安くなっています。

眺めの良さそうなところという基準で選んだので泉質にはこだわりはなかったのですが、備長炭風呂ということでした。さっきのラーメンに引き続いて、ここでもまた備長炭とは、さすが和歌山。

でもお湯そのものはかなり塩素臭が強かったです。まあ眺望重視ですから今回泉質は二の次です。のんびり海を眺めながらお湯に漬かることによって、精神を洗濯をするのが目的ですから。

加太港が見えます。加太の大波止の釣り公園も見えます。一度ここで釣りをしてみたいものです。

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友ヶ島が見えます。一度渡ってみたいものです。

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こんな感じの露天風呂です。なかなか景色は良いです。

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いつも私は烏の行水なのですが、昨日と今日はゆっくりお湯につかりました。

帰りは26号線をのんびりとドライブ。佐野漁協で穴子の天ぷらとアマエビ(最近スーパーに売っていない)を仕入れてから帰路につきました。

佐野漁港にて。演歌歌手にピッタリの背景ですが、YUKAが写っています。

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のんびりして、少しは緊張もほぐれた感じです。帰りにレンタルビデオで「スーパーマン」をレンタルしてきました。これから見る予定です。

以上、私の休日でした。

ひさびさにラーメン

今日はのんびり和歌山までドライブしてラーメンを食ってお湯につかってきました。

10時過ぎに家を出発。昼前くらいに目当てのラーメン屋につきました。何度か来たことがあります。「京橋 幸太郎

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和歌山に多い、とんこつ醤油味です。割としっかり醤油の味がしているので、好みです。

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ところで、驚いたことに備長炭を練り込んだラーメンというのを新しく出したらしく、これがまた、ダイエット効果がすごいそうです。

美味しくなるのではなく、ダイエット!?と物珍しいものにはとりあえず警戒心を抱いてしまう私は敬遠しましたが、YUKAが飛びつきました。

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太っている私が食わずに痩せているYUKAがこれを食べるというのも変な話ですが・・・。でもこの備長炭入りラーメンのダイエット効果が新聞記事にもなったようです。店長の激ヤセした写真とともに掲載されていました。ごく短期間にかなり痩せたそうです。しかしそういう話を聞くと私はむしろちょっと体に悪いから痩せたのでは?とか思ってしまいます。

一口もらいましたが、味はそれほどかわりません。それより、和歌山ラーメンは全般に麺がやわらかいので、固めが好きな私にはそれが気になりました。今度から固めとリクエストするのを忘れないようにしなければ・・・。

さて、この後は、風呂です。ドライブをかねて、加太方面まで行ってみました。

私の性格

私はかなりいじけやすい性格をしています。疎外感を感じやすいと言ったほうが良いかもしれません。

これは、自分から朗らかに人に接することができず、交際が相手頼みになりがちだからということもありますが、それより何より大きいのが、私は普通の人と物事の感じ方や価値観が違うことが多いからということが大きく影を落としているのだと思います。

だいたいどこへ言っても私の意見というのは少数意見です。テレビを見ていても、自分の感覚や意見や価値観が一致するということが、ほとんど希にしかありません。

迂闊に思っていることを正直に言ったりすると、かなりドン引きされることがしょっちゅうでした。だから最近ではあまり本心を言わなくなっていたのですが、どうもこのブログには結構本心をさらしてしまって、後で後悔するということの繰り返しです。

いずれにしろ、自分は世間一般の基準からは常にはずれた存在であるという疎外感が常に私の心の中にあって、それが私の表情の影となってあらわれているのだと思います。

だから民主主義というのは私にはものすごく恐ろしく感じられるのです。あれは多数決なわけですが、最近の民主主義は多数決による少数意見の排除の傾向が強いです。

私は自分の意見が多数意見と一致したためしがほとんどないのです。私の意見というのは常に排除される側の意見であることが多いのです。

多数者による少数意見の排除が正義であるかのように言われると、私はものすごい恐怖を感じます。私は物事を私なりにつきつめて考えているつもりですから、自分の考えが間違っているとはあまり思いません。間違っているかもしれないとは思いますが。しかし、私よりも明らかに何も考えていない人が多数の塊となって全てを決定して行く世の中は、私にはやっぱり恐ろしく感じられます。

話はそれますが、結局、いじめの背景には民主主義と平和主義と平等主義があると思います。

色んなタイプのいじめがあるでしょうが、戦後の教室で主要ないじめとは、これらに起因するものだと思います。

クラス内に教師と生徒の間にすら上下の序列がなくなり、成績も家庭環境も似たような生徒達が同じ学校に通うようになりつつある事からも、最近の学校ではクラス内は均質化していると思われます。平等主義が実現された結果でしょう。

しかし、集団が均質化すればするほど、その中に未だに残る差異にたいして異常に感覚がするどくなり、微差を大きな差と感じるようになります。

多数の側がその微差を示す相手に強い違和感を感じるような場面が増えることでしょう。その時、民主主義のイデオロギーが多数者による少数者の排除を正当化させると思われます。

昔ならば、なんかちょっと気に入らないと思われる相手にはつかみかかるとかぶん殴るなど、ケンカをすることでその場で不満のエネルギーは解消されていました。しかし今や一切の暴力はいけないとの平和主義が世の中を覆っているため、瞬間の暴力に走ることはないかわりに、行動が陰湿化して延々と終わりなく続くのです。

いじめられている側にしても、自分をいじめている相手であっても暴力をふるうことを禁じられている(というか暴力という手段があることすら知らされていない)ために、行き場のない感情は最終的に自分を傷つける方向へ向くしかないという有様です。

だから戦後特有のいじめをなくすためにはクラス内に序列を作り、教師の権威を取り戻し、少々の暴力はむしろ推奨するくらいのことが必要なのではないかと思います。

と、このような持論を私が展開してみたところで、誰も共感してくれる人などいるはずもなく、ますます私の疎外感は高まるという訳です。

大人ですら多数意見による少数者の排除というようないじめをやっているのが今の社会です。いじめられている子供に逃げろと言ってみも、逃げる場所などそもそもないかもしれません。一生逃げ続ける訳にも行かないでしょう。

逃げずに戦うことを教えるしかないのではないかと私は思います。もちろん、戦うことも逃げることも親に相談することもできない子供が自分で自分の命を絶ってしまうのでしょうから、これとて効果があるとは思えませんが。

それからもちろん、最近問題になったいじめで、実際には集団暴行や恐喝と言ったれっきとした犯罪であったりするものや、親たちをも巻き込んだ逆差別によるものであったりと、これにあてはまらない「いじめ」も実際には多いのですが、そういうのは教師たちの手に負えるものではないでしょう。

自分の性格の話をしているつもりだったのに、話がそれた・・・。

京都で温泉

冬でも私は釣りに行ったり遊びに行けるけれど、YUKAは寒さに弱いので釣りには行けない。ということで、どこかへ連れて行ってくれと言われていた。

今日(27日)は京都市内にちょっと用事があったので、ついでに温泉でも入ろうということで、一緒に行ってきた。

午前中で用事は終わったので、昼頃に温泉でのんびりすることにした。

中央卸売市場のそばにある湯の宿「松栄」の浴場「誠の湯」に行ってみた。

ここは地下からひっぱってきたお湯ではないので正確に言うと「温泉」ではないらしいけれども。

旅館の風呂なのだが、風呂だけ利用できる。その場合は旅館と玄関が別になっていて、一見するとやや小規模のスーパー銭湯のように見える。中はスーパー銭湯に匹敵するくらい広いが、かなり空いていた。入浴料が900円とやや高めの設定だからか?土曜のお昼頃だったのだけれども。

時々行くスーパー銭湯のたぐいは、土日祝ならいつ行ってもどこも混んでいて、正直うんざりする事ばかりだが(YUKAが行きたいと言うので私は我慢して行っている)、ここくらい空いているとありがたい。

ともかく、混雑が苦手な私にぴったりな場所だ。ゆったりのんびりできる良いところを発見した。京都にはちょくちょく行く用事があるので、ここもちょくちょく寄ることにしよう。

その後、ちょうどお昼だったので、中の食堂で昼食を食べた。串カツの盛り合わせの定食で美味しかった(写真なし)。ちょっとだけついていたお造りがこれまた美味しくて、びっくり。高級魚のお造りはいつも山ほど食べているが、やっぱり料理人の包丁さばきで味がずいぶん違うようだ。ウチでは、いつも魚だけは私が調理している。まだまだ修行不足のようで、もっとたくさん魚を釣らねば・・・。

近くにはこんな門があった。

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見たときは何だかわからなかったが、後で調べたら島原大門というのだそうで、ここはかつて花街だった所で、島原大門はその入り口だそうな。島原と言えば、新撰組ゆかりの地だそうで。

京都は町中にこういうのがあるところが何とも良い感じだ。

冬は神経がピリピリしがちなので、このようにリラックスすることが私には大切です。ただ、その後はまっすぐ帰ったので、3時くらいには帰宅したからYUKAにはちょっと物足らなかったかもしれないが・・・。

のんびりするために出かけても、ある程度のんびりしたと思ったらセカセカと急いで帰ってくるところが、何とも言えない私の性格で、YUKAはこんなんで満足しているのかな?

まあ午前中に用事があったので、そのついでという感じだったから、ちょっと悪かったかもしれない。

ということで、明日もどこかへ出かけようか・・・。ちょっと遠出していつもと違う方向で、和歌山の有田あたりの温泉にでも行ってこようかと思っている。

電車内での化粧

私はあまり電車に乗らないのでわからないが、最近は電車内での化粧というのが横行しているらしい。

それに関して、なるほどと思える文章が以前の新聞に載っていた。ちょっと読みにくくて難しい文章なので、私が勝手に翻訳して転載しておくことにする。

 世相の腐れや乱れは、まずある種の女性たちの振る舞いに端的に現れてくるそうだ。それは、環境に順応する能力・性質が女性には比較的に強いからと考えられる。

たとえば、公共の乗り物のなかで、今や年配の女性までもが、文字通りに白昼公然と顔の化粧に精出しているの図は、我が国に特有の現象である、ということらしい。

これこそ、この列島における世相の劣等ぶりの反映であると。欧米では、娼婦の間ですらそのような素行に及ぶものはめったにいないそうだから。

「他人に直接迷惑をかけないかぎりは何をしてもよい」というのが近代で公認されている自由論として横行している。

今や、四の五の説明せずに、「みっともないことはみっともないのだから、とにかくそんな事はやめろ」と怒鳴りつけるのも無効になっている。

世間から見られてみっともない事はやめなさいと命じる「恥の文化」はすでに消滅してしまったのだから。というより、世間の側が恥知らずになってしまったら、「恥の文化」などにそもそも出番はないのだ。

このような次第で、「他人に直接迷惑をかけないかぎりは何をしてもよい」などと構えている人間には、面倒を承知しつつも、「なぜ人前で化粧に熱中してはいけないか」を説明してみせなければならなくなる。

この説明が何故面倒臭いのかと言えば、それは、近代のヒューマニズムやデモクラシーに正面から懐疑を差し向けなければならないからである。ちなみにここで言うヒューマニズムとは人間礼賛主義という意味のもの、そして、デモクラシーとは多数派の欲望を実現させることを無条件に善しとするしくみを指している。

女性が化粧するに当たっては、同性への虚栄心や劣等感は言うに及ばず、異性への媚態もしくは煽情といった、人前で公表しにくい動機が多少ともかかわっている。

つまり、そのような私的な動機を醜く人前に晒してしまう行為、それが人前での化粧だということだ。そんなおのれの愚かしさを他人にみせつける、それを「権利」にまで高めたところに、「電車内での化粧」が出現するということである。

それは同時に、人前に公開すべきものとしての公的な動機に著しく欠ける行為でもある。公共的な場にあっては、真っ当な人間ならば、いつなんどき他者から話しかけられないともかぎらない、また他者に話しかける必要が生じるかもしれない、と身構えていなければならない。一例を示せば、目前の老人や病人に席を譲るための会話がそれである。

自分の私的で個的な関心事である化粧に熱中するというのは、そうした公共心をあらかじめ放棄することであり、そういう人間には、厳密にいうと、人前に姿を現す資格はないのである。

女性にとっての化粧は、お洒落が一般的にそうなのだが、社交の場における「戦いの仕度」なのだと思われる。人前での化粧は、いわば「戦いの舞台裏」をさらけ出すに等しい不品行である。その種の羞恥心の足りない女性たちに可能な社交は、最近随所で耳にするように、人前でけたたましく嬌声を発することだけであろう。


いつも言いにくいことをズバズバ言っていただいて、どうもありがとうございます。

たまには酒も

先日の新年会では、ひさしぶりに楽しい酒を飲むことができた。酒を飲むこと自体がひさしぶりだった。職場の忘年会には車で行ったので私だけ酒を飲まなかったし。YUKAの実家にお邪魔しても、皆で食事に行っても、いつも車なので酒は飲まない。学生時代を一緒にすごした一緒に酒を飲めるような友人とも久しく会っていないので飲むこともない。

私は酒の味がまったくわからないので、ビールも含めてどの酒も、美味しいと感じたことが一度もないために、一人で飲むことはまずない。たぶん酒の味がわかる人から見たらかわいそうと思われることだろうが、まあわからないんだからあまり気にもならない(負け惜しみ?)。

でも、学生時代は毎晩のように飲んでいた。つまり、つきあいで飲むのは嫌いではないということだ。強くないから飲めば酔っぱらうし、ほどほどなら気分も良くなる。

最近はほとんど酒を飲まなくなったというのは、車で移動ばかりということもあるけれども、私の交際範囲がごく狭くなってしまったという事も示しているのかもしれない。今の職場ではあまり人間的な交流がないし、酒も飲まない人が多いので、なおさら飲むことがない。

まったく酒を飲まないよりは、たまに飲み過ぎない程度に軽く酔うくらいのほうが、毒素の分解酵素が誘導されたりストレスが解放されたりと、健康的には良いようだけれども。そんな理由のためにわざわざ飲むというのもアホらしい気がする。

それから、もともと酒を積極的に飲みたいと思わない大きな理由には、幼児体験というか、子供の頃の経験で、私の心の中に潜在的に酒を飲むことが悪いことという意識が染みついていることも関係あるかもしれない。

アル中で入退院を繰り返している叔父だとか、酔っぱらって暴れる叔父、親戚で集まって酒を飲んではケンカしている叔父達(私の父も含む)。しかも、どこそこのラーメンがうまいとかまずいとか、そんな事で。まあでも、物静かに飲む叔父もいたので(父母ともに兄弟が多かった)、一概に皆が悪酔いするタイプでもなかったのだが。

それから、一番印象に残っているのは、時に浴びるほど酒を飲んで、自分の吐いたゲロを顔から浴びるみっともない父の姿・・・

そういう姿を小さい頃に何度か見せられて育ってきたので、自分の中にも同じ血が流れていると思うと、怖くて酒をたくさん飲もうという気にならない。

だから飲んでもそこそこでセーブしてしまう。

でも、父が酔っぱらって時に前後不覚になるほど酔いたかった気持ちは、今頃になってようやく少しわかるような気がしてきた。

中卒で学歴もなく途中入社だった父は会社ではおそらく始終立場が低かっただろうから、場合によっては年下の上司にこきつかわれたり、仕事内容も肉体労働に近いようなきつくて給料の安いものが多かったのかもしれない。

しかしそれでも生活のため、家族のためにということで必死で頑張り、無口な性格だから誰に文句やグチをうまく言えるわけでもなく、家に帰れば私のような親孝行などという言葉も知らなければ親の言うことと反対のことばかりする息子が親の気持ちも知らずに減らず口をたたき、わがまま言い放題にして神経を逆撫でする。

それでも父は、「俺が家族のために頑張らなければ誰が頑張るのか」という必死な気持ちで仕事にはげんでいたのだろう。

それで、時にどうにもならないくらい辛い時には泥酔して醜態をさらすことがあったとしても、それを私がみっともないなどと思ってはいけなかったんだよなあと、今更しみじみと思う。

私はホント、何もわかっていない子供だったなあ。今でもたいして成長していないが。

父は急に亡くなったので、親孝行もできず、感謝の言葉を伝えることもできなかった。そういう事を後になって後悔するなどとは、想像したことすら無かった。

墓参りも年に1回くらいしかできない。ホント、私ってどこまで親不孝なのか・・・。

って、ずいぶん話がそれてしまった・・・。

この年にしてようやく、父が私によって被ったであろう莫大な苦労を、この私も背負ってみせようかという少々の覚悟もできたのだが・・・でも具体的に想像してみると、私はやっぱり父ほど立派でないだろうなあという気もする。

駐車券をもっと下さい

職場から車で10数分いったところにジュンク堂書店というのがある。それはアクタ西宮という複合商業施設の中に入っているのだが、かなり大きな書店で、たいがいの本は置いている。

私は大きな書店をブラブラしながら色んな本を手にとってパラパラ見るが好きなので、時々仕事を抜け出して、この書店に行くこともある。

昨日も、昼休みにちょっと抜け出して、書店をブラブラして、興味のありそうな本を次々に手にとって、レジに持っていったら、何と1万円を超えていてびっくりした。

専門書が2冊と、あと、映画「硫黄島からの手紙」がいまひとつ期待はずれだったので、かわりというわけではないが、特攻に関する本を3冊(「特攻 最後の証言 / 『特攻・最後の証言』制作委員会」など)と、それから「「法令遵守」が日本を滅ぼす / 郷原 信郎」という新書を1冊。

ところで、このアクタ西宮には有料駐車場があって、ジュンク堂でも駐車券を出してくれているのだが、3000円以上で30分の割引券を1枚、6000円以上で2枚くれるとなっている。

つまり、3000円かうごとに1枚という感じに思える。それならば、9000円以上で3枚くれてもおかしくないところだが、1万円以上も買った私に対して、駐車券は2枚しかくれなかった。

そこで私は

「9000円以上では3枚くれないんですか!?」

と言ってみたが、それにたいする店員の返事は

「6000円以上ということで、2枚になっております」

とか。それならば、ということで私はさらに聞いてみた。

「じゃあ、この本の3000円ぶんのを一端買うのをやめることにして、後からもういっぺんレジに並び直したら、その時はもう一枚駐車券をもらえるんですか!?」

店員は絶句した。

この書店には離れた2カ所にレジがあるから、それをやろうと思えば簡単にできるのだ。というか、以前に一度、そうやって駐車券を3枚もらったこともあるのだ。

しかし、そういうことをチマチマやるのも何かセコいし面倒だから、今回は堂々と店員に問いただしてみたのだが、ちゃんとした返事は帰ってこなかったし、もう一枚駐車券をもらうこともできなかった。

そこで店員を追いつめてもかわいそうということで、たかが30分150円ぶんの駐車券のことで目くじら立てるのも面倒だから、適当なところで切り上げて帰ってきたというわけ。

しかし、機転がきく、というよりもセコい事するやつ(俺?)ほどトクをするようなしくみにはちょっと納得が行かないものがある。

まあ、最近はみんな本を買わなくなったりブックオフみたいな店ができたりして、あまり本屋を追いつめるのもよくないし、これ以上活字文化の荒廃をすすめないためにも、そういうセコい真似はもうやめよう。

朝から泣きっぱなし

昨日のお昼に食べたシャケ弁当のシャケの骨がノドに刺さったらしく、唾を飲み込むとものすごい痛い。

今朝になってもまだ痛いので、ちょっと病院で見てもらった。職場のすぐ隣の建物が病院になっていて、関係者なのでタダで見てもらえる。薬もタダ。

しかも待合室で待たなくても、診察が空いたころに電話で呼び出してもらえるので便利だ。

それは良いのだが、ノドの結構奥のほうなので、覗いただけでは分からないから、カメラで見てみましょうと言われた。細長いゴムひもみたいなやつの先にカメラがついている。

そしてそのカメラを、何と鼻の穴から突っ込んでノドを見るということたしい。

恐怖で逃げ出したくなった。なぜ、ノドを見るのに鼻の穴から!?

鼻の穴から奥深く突っ込まれたカメラがノドをかきまわしているのがわかる。

ゲーゲーなるのをこらえるために、必死で太股をつねる私。

鼻からは鼻水が、目からは涙があふれだす。

顔中ドロドロになった。

しかも、「ちょっと骨らしきものは見あたりませんねえー、様子を見ましょう」だって。

たしかに、骨が刺さっているというチクチク感みたいのはないから、傷ついただけかもしれない。

こんなことなら、もう一日くらい様子を見てから行くんだった。

ノドの痛みよりも、鼻の穴から管をつっこまれてかきまわされるほうが余程怖くてつらい。

ありがとうございました

先日の新年会と釣りでは、何というか、皆さんから元気を分けて頂いた、そんな感じで感謝感激です。

どうも日頃から薄暗い部屋にこもって実験したりパソコンに向かってイジイジと仕事をしていると、気が滅入ってくるものですが、そういう事を忘れて久しぶりに子供に戻ったように楽しい時間をすごすことができました。

よしじいご夫妻には、釣りや宴会の段取りだけでなく、シラサやおでんを用意してくださったりと、しかも、素敵なおみやげまで(金山寺ミソと言うんですか?あと切り干し大根も好物です)いただいて、何から何まで恐縮です。

私は夏のバーベキュー大会の幹事をさせていただくことになりましたが、とてもよしじい師匠ほど完璧にできる自信はありませんが、なんとか皆さんに楽しんでいただけるように、またお知恵をおかしくださいませ。

それにしても、吉野の浜ちゃんからは鹿刺が、傳八屋さんからはふぐ刺しが、そしてよしじい師匠とお連れさんたちからのブリや鯛など、はまぐち屋さんからもビールの差し入れなど、超豪華な料理も堪能させていただきました。

参加したたくさんの方々と楽しくお話できて、本当に素晴らしい時間を過ごすことができました。

どうもありがとうございました。

新年釣り大会&新年会

2006年1月20日(土) 傳八屋

天気〜曇り時々晴れ、ほとんど無風。この時期にしてはかなり暖かい。

潮@五ヶ所〜大潮
満潮:7:10、18:11  干潮:0:22、12:38
日出:6:57  日入:17:10
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さて、今回は新年会。何年か前にも一度はまぐち屋さんで新年会をした記憶がある。今回はひさしぶりに新年会がなれて、前後に各自の都合にあわせて釣りという感じで、よしじい師匠が皆さんに声をかけて色々と手をつくしてくださったので、とても楽しい釣りと新年会になった。魚の活性はあと一つということだったが、そんなことを帳消しにしてあまりあるほど楽しいものだった。

今回の釣りも、釣果を取ったり順位付けをしたりはなしということで、「大会」とか「競技」というより、皆で楽しく一緒に釣りましょうという感じで、実は私はこのほうが気楽で良い。遊びに来てまで人と競り合いたくないし、みんな釣り仲間なんだから協力し合って楽しく釣るほうが私にとっては精神衛生上とてもよろしい。

人と競り合ったり序列や順位や成績に縛られるのは仕事だけで十分で、私はそれで一杯一杯だし、釣りの時くらいはそういう事を忘れて穂先だけに集中したい。ということで、今回は実に楽しい釣りだった。釣果はまあそこそこ(?)。

ところで、この週はいつもよりちょっと忙しくて疲れ気味だった。本当ならば金曜の晩につばき屋に泊まろうと思っていたのだが、準備に手間取ってしまい、家から直接出発することにした。それでもいつもより早く布団に入って3−4時間は眠れたので、どうにか元気に出発。

ちょっと寝過ごしていつもより30分遅く出てしまったが、それでちょうど良い時間に玉城に到着。サークルKとまつもとに寄ってからサニーズでレジに並んでいると、イケチャン登場。今日は辨屋さんに行かれるそうだ。

サニーズではカツオやサバがまるごと一本売っていたので、試しに買ってみた。去年は波止釣りでカツオがたくさん釣れたので、ハラワタを取って置いて釣りで使ったら、ブリが釣れたので、カツオが良いかもと思っていたが、もう使い切ってしまって無くなったのだが、サニーズで売っているとは知らなかった。

その後、つばき屋に寄ると、カトキチさんととーますさんがおられたのでご挨拶。カトキチさんは、連日新年会ということらしく、酒が抜けていないご様子だった。イカダにあがってからもそうだったが、その割にはバンバン釣っておられたが・・・。

さて、傳八屋の駐車場に到着すると結構空いている。寒くなってきたということと、あと正月前後にずっと満員だったので、その反動ということもあるのかもしれない。

事務所で受け付けと釣り座の抽選をすます。11番イカダの北西角の北側になった。良い場所か!と思ったが、結果を言うとあまり釣れなかった。

今日は20数人の参加者で、11番とその隣の8角形のイカダ2基を使ってやることになった。

よしじい師匠が色々と気を遣ってくださり、皆のぶんのシラサやらおでん(練炭まで)を持ってきて下さったりと、恐縮至極だった。

さて、釣り開始。前日がニコニコデーということが影響してなのかどうなのか、イカダの上ではサッパリアタリなし。たぶん最初の放流まで誰も釣れなかったのではなかったか?はっきり覚えていないが、すーさんが大鯛を釣ったくらいだったと記憶している。

その大鯛、何と6.2キロというものすごいでかさで、後で傳八屋の社長の話によると、「そんなでかいのは放流した覚えが無い」とか・・・。ホンマカイナ!?中で成長したのか?

私は放流までアタリが一度もなく、しかし今年はあまりピリピリしないことが目標なので、淡々とエサを変えタナを変えしていた。

今回大イカダということで、イカダ竿を使うのをやめて、ホリデーメイトのトップにイカダ竿の穂先を突っ込んだ少し長めの竿で釣っていた。

それから、最近はバラしが多かったので、どうもその結論は、針が悪いということで、今回は針を変えてみることにした。

今まで、いつも小さめのグレ針を使っていたのだが、その理由としては、軸が太いので針を小さくしても強度があるということと、軸が短いので飲み込ませやすいとか食い込みが良いのではないかと思ったから。

しかし、どうやっても食い込まないのだから、食い込みが良いかどうかはこの時期はむしろ関係なくて、それよりも、口にかかりやすい針が良いだろうと思っていた。

それで、今回はチヌ針を使うことにした。帰ってからあにこらむとsmileさんの掲示板を読むと、まさにそんな事が書いてあったので、私の考え方も方向性としては間違っていなかったんじゃないかと思うが、何せ、最近あれだけあったマダイのアタリが今回はさっぱりなし・・・。

せっかく試そうにも、イカダの上でもマダイはあまり上がっていない。

そのうち、テント前にシマアジの大群が浮いてきたようで、近藤さんがエサの付け方を工夫して次々に釣っておられる。どうもシラサをある付け方をした時のみに釣れるようで、その付け方を失敗するともう見切られて釣れないようだ。

他の皆さんもそうされて、次々にシマアジが釣れ始めた。

私もお邪魔しようかと思ったが、結構混雑していたので、やめた。

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今年の目標は楽しく釣ることだが、私の場合は人が密集していると楽しくないので、こういう場合は躊躇なく移動しないことにした。アタリがなくても足下で黙々と試しているほうが、私の性分にあっている。

ただ、皆さんひとしきり釣った後はテント前が空いたので、その時ちょっとお邪魔して試してみたが、私の安物のサングラスではほとんど偏光グラスとしての性能がなくて、シマアジの魚影すら見えずに、目がちかちかしてきたので、すぐにやめた。やっぱり偏向グラスはそれなりの値段のものを買うべきなのだろうか・・・。

私は強度の近視・乱視だから、そういうのを特注するとかなり高くつくんだよなー。どうしようか。

それはそうと、この日の11番イカダは活性が低く、特に青物の活性が低かった。たぶん青物は2本くらいしかあがっていない。ところが、隣の8角形のほうは青物が10本あがって、そのうち何と7本がブリ!よしじいい師匠など、ブリを2本もあげられたとか。

ん?でもよしじいって私と同じイカダだったはずだが・・・。よしじい師匠の釣り座では皆がシマアジを釣っていて狭いから隣に移動されたようだが、そこで何とブリを釣りまくっていたというわけのようだ。

さて、私はと言うと、マダイがどこにいるのかさんざん悩んであちこちさぐってみるも、中層でシマアジとシオが1匹ずつと、ウキ仕掛けまで出してきてイカダの真ん中をさぐって、底まで仕掛けを落としたらソイが2匹釣れたりと、マダイがなかなか釣れずに苦労していた。せっかく針を試そうと思ったのに。

そうすると、偶発的にシラサでマダイが釣れた。アワセはそれほどおおげさにはせずとも、しっかりと針がかりした手応えが感じられた。ひさしぶりにクチビルにきっちりと針がささっていた。

やっぱりチヌバリのほうがマダイには良いようだ。でもチヌバリは軸が長いので、今まであまり使わなかった。シマアジは釣れにくいような気がしていたので。というのも、シマアジは目が良いから、針で一番太いチモト部分をちゃんと隠さないと釣れないことが多いが、軸が長いとエサを小さくつけにくいということと、チモト部分が露出しやすいという感じで、シマアジも同時に狙うなら、やっぱり飲み込ませやすいグレ針が一番良いんじゃないかと・・・。まあ、関係なしに釣り上げている方も当然いるだろうから、一概に決めつけるのは難しいが。

まあでもちゃんと確かめたわけでもないし、とにかくしばらくはマダイ狙いにはチヌバリのほうが今後は良さそうかなとは勝手に思っている。

ところで、シマアジ狙いに移動したときには、小さいグレ針のほうが良いと近藤さんに教えていただいたので、グレ針に付け替えたが、目がちかちかしてきてリタイアしたが、その後もグレ針をつけたままでやっていたら、何とマダイがかかって、タモ入れ直前にバラしてしまった・・・。

針だけのせいにするのも何かと思うが、なんかあわせた瞬間の「刺さった感」が違ったような気がしたので、やっぱりマダイのクチビルには刺さりにくいのかもしれない。

そうやって、悩みながら釣っていたのだが、近藤さんやらカトキチさん、トーマスさんをはじめ、皆さんは快調にシマアジを釣っていた。このメンバーの中に入っても私に釣れるはずもなく、自分の足下で頑張ってみたが、魚信は得られなかった。

さて、この日は夕方宴会のために泊まりだから、延長することにした。11番イカダので釣っていたほとんどの人が延長した。

これで8角形と11番と、あと新しくできた12番の小イカダもあわせて探り放題かと思いきや、何と隣の12番イカダは全員が延長ということで、残念ながらそううまくや行かなかった。

延長では足下のネット際に魚が数匹浮いてきていて、この時思ったのだが、今日はどこをさぐってもマダイのアタリが遠かったのは、もしかして足下のごく浅いところにいたのではないか!?ということだった。

エサが見えるか見えないかくらいのごく浅いタナを探ってもみたのだが、この日は大イカダということで、長めの竿でやっていて、イカダ竿ではないから、足下、すなわち、ネットの際は探れていなかった。なるべく真ん中近くということで仕掛けも円月さっぽうで投入していたし、どうしてもネットから遠目ばかり狙っていた。

今度から、足下のネット際もわすれず探るようにしなければ・・・。

そう思って、ネットの際の、3mくらいにシラサを投入してやると、即、穂先にアタリが出て食ってきた。急激に海面まで浮いてきてジャンプしたのは、なんとスズキ(マダカ)で、猛烈なエラ洗いをしてくれて、なんとその瞬間にプッツリとハリスを切られてしまった。

やられた・・・。でもまだ何か魚影は見えるので、引き続きシラサを投入するとまたアタリがあって、今度はマダイが釣れたが、この時もまたいつものクセでグレ針をつけてしまっていたのだが・・・何とバラしてしまった。タモ入れ直前のバラしに泣きそうになる。

気をとりなおしてチヌバリに変えて、ふたたびシラサをつけて投入・・・。するとまたアタリが出た!ビシっと合わせるときっちり乗ったようで、今度はバラさずに釣り上げることができた。が、マダイではなく、またスズキだった。

さっき逃がした奴よりも一回り大きく見えた。2匹スズキが浮いているのが見えていたから、たぶんもう一匹のほうだろう。

そして、浅いところにまだマダイらしき魚影が見えていたので、ひきつづき、シラサをつけて足下3mくらいに投入。穂先がツンツンと引っ張られ、スーっと入ったので、あわせると竿に手応えを感じた。そして無事タモにマダイが収まった。しっかりとクチビルに刺さっていた。

うーむ、2−3匹釣っただけだが、やはりチヌバリのほうがグレ針よりも、つまり軸が細いほうがマダイの口に刺さりやすいのではないだろうか?

この時期、特にマダイは口の中にまでエサを入れないし、たぶん口の先っぽでくわえる程度なんだろう。だから軸の長さに囚われてチヌバリを避けるのはあまり意味なかったかもしれない。

それにグレ針だと、クチビルの前のほうに刺さることがあまりなくて、きっちりかかっている時でも口の端のほうだから、あるていどマダイが飲み込もうとしてくれないとかかりにくいのかもしれない。やっぱりエサを飲み込もうとしないでくわえているだけのこの時期は、他の理由があっても、刺さりやすさを考えて軸の細い目の針のほうが良いのかも。

と、そういう事を一人でごちゃごちゃと考えながら、釣りそのものも結構堪能し、そして何より、近藤さんとすーさんが、Mご夫妻の大爆笑を次々に取っており、それを聞いているだけでも楽しかった。

釣りそのものも堪能して、イカダの上も楽しく和気藹々。まさに最高の釣りができた一日だった。これが釣り堀の良いところだなあとつくづく思う。

たくさんシマアジを釣っていた近藤さんは皆さんに次々に配っていた。私もソイ1匹とシマアジ2匹を交換していただいた。ありがとうございます。

(結果)マダイ3匹、ソイ2匹、シマアジ1匹、シオ1匹、スズキ1匹

延長してからは、マダイ1匹とスズキ1匹だったので、コストパフォーマンス的には微妙なところだが、それでも朝の7時から夕方の4時までびっしりと、真剣に釣りをして、たっぷり笑って時間をすごせたので、これ以上望ことなどなにもなく、大満足だった。

しかも5目釣り達成ということで、初釣りとしてはこれで十分だろうし、近藤さんにいただいたシマアジもあったので、おみやげ的にも十分。

ただ欲を言えば青物が釣りたかったが、青物釣り名人のkawamuraさん他、そうそうたるメンバーで青を活性化できなかったのだから、これは仕方ないと素直にあきらめることができる。

その後、夜の宴会では久しぶりに楽しい酒を飲むことができた。これほど楽しい酒は飲んだことがないというくらい楽しかった。これも皆さんのおかげです。今年一年もどうにか頑張れそうです。よろしくお願い致します。

いつもは飲んでもせいぜいビールをコップに2−3杯くらいのところを、この日は皆さんに酒をついでまわったりも(珍しく)してみたので、その返杯で結構飲んで、たぶん10数杯は飲んだだろう。珍しく酔っぱらってはしゃいだりしていたのだが、人数が少なくなって来たあたりから頭がガンガン痛くなってきたので、11時くらいに部屋にひきあげて眠ることにした。

おそらく誰かがいびきをかくだろうと予想して、ちゃんと耳栓をしたところ、ぐっすり眠ることができたが、4時頃にトイレに起きてからはウトウトしかできなかった。隣で寝ていた近藤さんのイビキが、タタミを伝わって直接振動として伝わってきたので、耳栓をしても効果がなかった。思わず笑いそうになってしまったが、気づいたら朝になっていた。

起きるとこの日の釣りの方はみなさん出られた後で、よしじい師匠にお礼を言うのを忘れてしまった。よしじい師匠、新年会の幹事などお疲れさまでした。そして本当にありがとうございました。

ところで、宴会の時にマナブンさんなどから、今年のバーベキュー大会の幹事をせよとのご指名をいただきました。

去年の大会の時に手をあげようと思ったのですが、「私が幹事をやったら参加者が少なくなるんじゃないか!?」とか思って遠慮していた。今回もよしじい師匠が声をかけたからこれだけ皆さん集まったのだろうし、大爆笑会にしたって近藤さんの顔で集まるんじゃないかと思うわけだが、私がやらせてもらって本当に大丈夫かなあという心配がある。

けれども、私も何かさせていただきたいと思っているので、差し支えないようでしたら、バーベキュー大会の幹事をやらせていただきます。日程としては7月最後か8月最初の土日くらいでどうでしょうか?

前からうさんくさかった「あるある」

今回、あるある(探検隊ではなく、あるある大辞典とかいうテレビ番組)が、納豆には実際にダイエット効果があるとは言えないにもかかわらず、実験データを捏造して、効果があるように放送したということで問題になっているが、そういう情報に飛びついて納豆を買っていた人というのも、あまり褒められたものではないだろう。

いやー、身内にもそういう人がいるので(YUKAではない)、あまり声を大にしては言えないのだが・・・。

しかし、「あるある」とかああいう情報番組を時々私も見るが、そこで行われている実験というのは、ごく少数の被験者しか扱っておらずにとても統計的に意味があるとは言えないし、二重盲検定(ダブルブラインドテスト)をやっているわけでもなく、また、実験の比較対照すら取っていない場合も多く、従って、先入観や人為的な操作が入る余地があまりにもありすぎる実験だから、ああいうのは科学的に意味のあるデータをは到底言えないものばかりだ。

今回、納豆のデータが捏造されていた、と言っているが、捏造していなかったとしても、おそらく統計的に意味あるだけの膨大な量の追跡をしたわけでもなければ、二重盲検定をしたわけでもなく、対照実験も行っていないに決まっているから、そんなものを信じるほうがどうかしている。

ああいう番組でちょろちょろっと実験しただけで、「効果がある」ことが「科学的に証明された」かのように放送するというのは、その時点でもうすでに「疑似科学」でしかない。だから常日頃からうさんくさいなあと思っていた。

そういうことを、私はYUKAとテレビを見ながら、いつもYUKAには言っていたのだが、どうやらYUKAはご両親にはそういう事を伝えてくれていなかったようで、騙されたとか・・・。

やっぱり理科教育で大事なのは、自然への理解を深めるということだけでなく、こういう事、「科学的な検証方法」を学校で教育するということがもっと必要なのではないかと思う。

私は科学とか合理主義とかそういうものですら盲信するのはかなり危険だと思っていて、自分の仕事とは言え、それらに対してもつねに懐疑的な目で見ているが、もっと危険なのは科学を宗教の変わりにしてしまって、疑似科学が跋扈することだと思う。

科学は物事の真偽を判別する手段としてはそれなりに有効なものなので、その方法をちゃんと学校で教えることは必要だと思う。

小学校から英語とかパソコンとか株とか、そんな勉強などしている暇はない。そういうのは、バイオリンとかゴルフとかお稽古ごとの一種として各家庭の教育方針に従って勝手にやれば良いのであって、義務教育では基礎教育と徹底させるべきだし、科学についての最低限の基礎くらいはそこに入れて、疑似科学に騙されない子供を育てることからはじめたほうが良い。

教育も、小学校から英語とかパソコンとか金融を教えろとか、あれは全部最初は経団連だか財界だかが言い出したことだが、いい加減、経団連を黙らせないと、日本の教育はどんどん腐って行くだろう。彼らはたかだか経済の専門家にすぎない。教育というのはもっと複合的・総合的なものなのだから。

そのまんまですか・・・

世の中、一番懲りない人というは、実は「有権者」なんじゃないかなあと思う。

そのまんま東が知事ですか・・・横山ノックの二の舞じゃないの?良くても青島幸男だろう。彼は「自分には無理だ」と言って投げ出してしまったが、途中で自分の無能さを自覚してやめただけ、まだ誠実ではあったと思う。

もちろん、宮崎県知事選挙での他の候補者がどうなのかとか私は全然知らないし関心もなかったけれども、そもそも、もう人材が枯渇しているのかもしれないから、これで仕方ないのかもしれないが。

特定の組織と強くむすびついた団体に政治を牛耳られるのは心配だけれども、無党派層という人たちも、かなりろくでもないんじゃないかと思う。

選挙に行ったり行かなかったり、新聞の見出し程度のことしか考えずに流行の世論に飛びついたり、ルサンチマンを抱えていたりと。そういう層が政治の決定権を握っているとしたら、それはそれで、特定の団体に政治を牛耳られるのと同等に恐ろしいことだと思う。

「あるある」で納豆のデータをごまかしていたとか言う話があったが、YUKAの話によると、この2−3週間ほど、いつ行ってもかならず納豆は売り切れだったそうな。

あれは、科学的なデータの話だからバレただけであって、テレビ番組なんて、商売や視聴率のためなら平気でウソやらデマを垂れ流したり、あやしげな情報で消費者や有権者を煽ったり誘導したりなど、ごくありふれた風景だろうに。

それを、テレビでやっていたというだけで簡単に信じて騙されて、今になって怒るというのも、滑稽だ。

あるあるを見て納豆を食えば痩せると思って飛びついた人たちというのが、郵便局員を公務員の地位からひきずりおろせば自分たちにもチャンスが回ってくると勘違いして「改革」を支持したニートやフリーターにそっくりだと思う。

そういう人たちが、たぶんそのまんんま東に投票したんじゃなかろうか?そして横山ノックに投票した人も、たぶん同類だろう。

釣れるかなあ

明日はどうだろうか。

まあ、アタリがあって楽しめれば良いか。魚にすればえらい迷惑な話かもしれないけれど。

願わくば、今日のニコニコは大荒れになることを期待していたが、そんな事を書くと今日行った人に怒られそうだ。

今年は、数への執着を断ち切って、釣りを楽しむことを新たな目標とすると言ったらYUKAからは行くからにはたくさん釣ってこいと言われてしまったので、まあ程々に・・・。

しかし、釣行記なんか書いていると、どうしてもあまり釣れなかったら格好悪いとか思ってしまって、そのせいで数に執着してしまっているという事もあるので、これはちょっと考えないといけないなあ。

数以外に何かテーマを見いだしてそれについて書いたところで、私がそんなことをしても説得力がないし、釣れない言い訳としか取られないんじゃないかと思って、どうしても数、つまり「わかりやすい結果」を良くする事にばかり執着してしまう。

そして数に執着するあまり、本来は楽しみに行っているはずの釣りが楽しくない、むしろストレスになるという馬鹿げた話になるわけだ。釣りには何しに行っているのかを、もういちど確認しておかなければならないだろう。

仕事しに行っているわけでもないし、生活や人生がかかっているわけでもない。楽しみに行っているのだから。でも釣り独自の楽しみということもあるので、そのへんのバランスも必要だろう。

まあとにかく、あまり数数と言って○○さんに嫌われないように気をつける、というのを今年のとりあえずの目標にしよう。

安くて便利ならそれで良いのか?

大規模店舗の出店規制がなくなったために、国土が荒廃している。特に地方のすさみ具合はひどい。

あれはもともと、政府がアメリカの圧力に屈して、大規模店舗の出店規制を緩和したのがはじまりがったが、国民も目先の便利さとか安さのことしか頭にないので、地方に「イ○ン」とか「ジャ○コ」とか「イ○ーヨーカドー」とか他にもたくさんあるが、あの手の大規模店舗ができることを手放しによろこんで、地方では商店街がさびれてああいう大規模店舗ばかりになったが、その事のマイナス面にそろそろ目をむけるべき時だろう。

国民が末端まで「経済効率」とか「便利さ」「安さ」というような、ひたすら経済的なことしか考えなくなり、地方の文化や共同体を守ろうとか子供の教育に良い環境を維持しようとか、経済人以外の側面を失ってしまったためだろう。

こういうものが地方の共同体を破壊し、暮らしを徐々に腐らせている。それだけでなく、こういうところが最近の地方の子供たちの主な遊び場になっているそうだ。

話はちょっとそれるが、日本にはあちこちに神社があり、そういう意味で「神の国」というのは間違いでも何でもないのだが、この神社にはたいがい「鎮守の森」がセットいなっている。こうした自然の中で子供達が遊ぶことによって、人間としてのまともな情操がやしなわれてゆくはず。

まあ私もそうして自然の中で遊んで育ったので、この私を見ると「ホントにまともな情操が育つのか?」と疑問に思われるかもしれないが、最近の子供は、外で遊ばなくなっているだけでなく、地方の子供が外で遊んだとしても、「鎮守の森」などではなく、それこそ「イ○ン」みたいな大規模店舗が遊び場になっているらしい。

これでホントにまともな人間に育つのか?心配だ。自然を大切に思い、郷土の歴史と伝統に愛着を抱ける人間が育つんだろうか!?

カルフールだのウォルマートだの、まあ私もそういうのを喜んだこともあったが、もうああいうところではなるべく買い物はしないようにしよう。というか、私は本やCDや釣り道具以外には、あまり買い物ということをしないけれども。

「涙しか出さない男」と「金を出す男」

みのもんた財政破たん夕張市で男泣き (日刊スポーツ)

 みのもんた(62)が財政破たんした北海道・夕張市を訪ね、市民が置かれた状況に男泣きした。17日、報告会見を行ったみのは「人工透析が必要な人が30人もいるのに病院もなくなる。死ぬだけじゃないか。夕張は、政治に裏切られた悲劇そのもの」と怒りをあらわにした。

 政治家、公務員による税金、年金の無駄遣いを検証するTBS特番「みのもんたの激ズバッ!ほっとけないSP」(24日午後6時55分放送)のメーンキャスターとして、市民へのしわ寄せが象徴的な夕張に足を運んだ。12万人いた市民が10分の1になった雪深い街にショックを受けたみのは、80歳を超えて1人住む市民の姿に「涙が出た」。

 みのの現場リポートは、初期のフジテレビ「なるほどザ・ワールド」以来約20年ぶり。「久しぶりで新鮮だった。マイク1本持って街に出ていた文化放送時代を思い出したね。これからも現場に出たい」と意欲的だった。


夕張に関しては、たしかに住民もかわいそうだが、行政関係者もかわいそうだと私は思う。彼らは特別無能だったわけではなく(もちろん有能でもなかったろうが)、夕張に限らずどこにでもいるタイプの平凡な役人でしかない。

そもそも夕張など、人口も少なく産業もなければ税収などない。炭坑が閉山になってから、もう農家くらいしかないだろう。北海道の農家なんてほとんど税金を払っていないから、税収も無い。

むしろ炭坑が閉山になって税収もない夕張市が、このままではヤバイと思って必死で色々やったことが裏目に出たという一面もあるだろう。何かしなければならないということで、まあでも何ができるわけでもなく、ただ箱物を作って金をばらまいて終わっただけなのだから、褒められたものではないが、しかし、それすらやっていなかったら、夕張もっと早くからかなりさびれて疲弊していただろう。

そして、その程度のことしかできないのが、それが普通だろう。平凡な役人にできること、というかちっぽけな地方自治体にできる事など、それが精一杯のはずだ。今回の破綻はそんな事が理由ではないはずだ。

夕張みたいな地方自治体に税収などないし、税源も無かったのだから国からの交付金に依存するのはあたりまえだ。というか、地方自治体はどこもそうだろう。そういうしくみになっていたのだから。

だから無駄な公共事業をやっていようとやっていまいと、国からの補助が急に大きく削られられば、ああなるのは夕張に限ったことではない。

みのもんたに限らずマスコミはあいかわらず財政赤字の根本的原因が「税金の無駄遣い」のせいだというデマを振りまいている。それは絶対に違うと私は思っている。税収不足が原因に違いない。

税金の無駄遣いは良くないに決まっているし、糾弾すべきことだろうが、しかしそれが原因で財政が悪化したというのは、デマだろう。

もちろん財政悪化の要因の一つではあるかと思えるが、しかし、べつに戦時体制でもないのに、公共事業へつぎ込んできた税金や役人の無駄遣いなど、金額だけきくと何億とかでたしかに多く感じるけれども、日本の経済規模に比べれば、そんなもの、たかが知れているだろう。

そんな事、つまり使われ方などが根本原因ではなく、日本の場合の財政悪化は、特に国財政の悪化に関しては「課税すべきところに課税してこなかった」ことが根本原因に決まっている。べつに消費税のことだけを言っているわけではない。

日本の経済がバブルで絶頂だったころから、赤字になりはじめている。好調だった経済の課税すべきところにちゃんと課税していれば、財政も健全なまま、バブルの抑制もできただろう。

だいたい、みのもんたは他の番組でもひたすら「税金の無駄遣いを糾弾する」ようなことばかりやっているけれども、それは何故かと言うと、まあ自分が正義の味方になりたいという偽善が一番大きいのかもしれないが、もう一つは、自分が税金を払いたくないから、そっちへ向かない方に矛先をそらしているということなんだろう。その程度の人間だ。細木数子と同類だろう。

国というのは一人一人の国民が平等に支えるのではなく、支える能力のある人間がささえなければ持たない。能力の無い人間に国を支えろと言っても無理だ。したがって国を財政的に支えることができるのは、金を稼ぐ能力に長けた「エリート」しかいないわけだ。

ところが、本来そういう人間であるはずの、ホリエモンや経団連とかハリーポッターの翻訳者とか青色ダイオードの開発者とかが何をしてきたかと言えば、政府に接近して自分たちに有利になるように政策を変えさせたり、税金を払うのが厭だからと言ってスイスに移住したり、金にめがくらんで日本の技術を売り渡したりとか、そんな事ばかりしてきた奴らなのだ。

こんなやつらを喝采している下流の人間はもっと愚かだ。こういう「売国奴」を殲滅しないかぎりは、いくら国旗や国歌に敬意を払えとか、特にそんな「態度」だけ教えてみたところで、無駄だろう。何が愛国心だ。下流の人間に愛国心があろうがなかろうが、そんなのはたいしたことではない。

愛国心を持つエリートが絶滅することが問題なのだ。「ノブレス・オブリージュ」とか「経世済民」はどこへ行った。まあこれがなくなったのは、ある種の悪しき民主主義・平等主義のせいだろう。

今の日本の「アメリカ式の個人主義・拝金主義教育」では上流を売国奴に育て、下流を奴隷にする。そういう教育こそを何とかしなければだめだろう。

能力のある者ほど私欲を抑えて「公」を考え、「公」を支えることを「名誉」と考える国でなければ、遠からず日本は滅ぶ。

今は、能力のある者ほど私欲に走り、自分の能力を私腹をこやすことにしか使おうとしない。政府はその私欲の暴走にお墨付きをあたえることばかりしている。名誉よりも拝金主義を奨励しているのだ。

だから税金が高いとか言って海外に逃げたり平気でするんだろう。そういう奴は二度と日本に入れないくらいの世論を喚起すべきだろう。それがマスコミの仕事のはずだが、みのもんたみたいにそっち側の人間ばかりだから、彼らは自分の金は一円も使いたくない人間ばかりで、その結果、おかしな世論が蔓延する。

一方、こんな人もいる。

松山千春、夕張市に200万円!ポンッと寄付&商店街で大散財

1月17日8時1分配信 サンケイスポーツ

 財政再建団体へと移行する北海道夕張市を、歌手の松山千春(51)が16日、初めて訪れた。北海道足寄町出身の千春にとって、同市の財政破綻は他人事ではない様子で、同市に100万円を寄付したほか、商店街に繰り出し、電化製品、CDなどをまとめ買いするなど大散財。さらに市の老人ホームにアポなし訪問し、購入した品物の一部を寄付した。春には同市で無料コンサートも開く予定で、活気のない夕張に元気を注入していく。

 千春はこの日午後2時ごろ、夕張市本町にある市役所を訪れ、後藤健二市長と対面。開口一番「何かしたい、でも何をしたらいいかわからない。(北海道出身のアーティストは)みんなそう思っているはず」と切り出した。

 その上で、「まず、夕張市民のために無料コンサートを開きたい。年配の方にも来てもらえるようなものにしたい」と話し、4月から始まる全国ツアー前の3月に同市でライブを行うことを約束した。後藤市長は「ぜひ、千春さんに元気をもらいたい」と快諾。2人は固い握手を交わし、千春は「これは一時金のようなもの」と、ポンと100万円を寄付した。


みのもんたとは全然違うねえ。こういうのが郷土愛と言うんだろう。みのもんはには金への執着しかないに違いない。

国旗・国歌に敬意を払う「態度」しか教えない上っ面の教育よりも、こういうことをしっかり教える教育こそ、今必要なのじゃないのか?

みのもんたみたいに口先ばっかりの拝金主義者になるのではなく、松山千春のように、自分に何ができるのかを考えて行動する人間になれ!と。

みのもんたみたいに、涙をながすなんてのは、ただ正義感に酔いしれて自分が気持ちよくなっているだけであって、男ならば涙をこらえて自腹を切る、それくらいのことをするのが男じゃないのか?

優しさが仇となる

職場で仕事のための材料(試薬とか消耗品など)は出入りしている2,3の業者(代理店)のどこかに注文して買うことになっているが、だいたいは一番安く売ってくれるところに注文することになっている。

ただ、プラスチック製品ならこの業者、この試薬ならこの業者という感じで、だいたい各業者の得意なジャンルがあって、そんなに競争ということにはならないが、まあ多少取り扱っている品が共通していたりもするので、大量に買うものの場合は見積もりを取って一番安いところから買うのが普通だ。

ところで、出入りしている業者の中には、おっちゃん一人でやっているところもあったりして、なんか同情してそこから買ってあげたくなるが、私の金で買うわけではないので、そういう私的な理由だけで買うわけには行かない。

それでもめげずに「安くしますから」とやって来るので、まあどこの業者から買ってもそんなに値段の変わらない「チップ」というのをそこから買うことにした。

「チップ」というのは、10個で1円もしないような使い捨てのプラスチック製品で、1000個入りが一箱に入っている。

ところで、最近、なんとなくチップの減りが早くなった気がしたので、私が学生に冗談半分で「ちょっと無駄遣いしすぎているんじゃないのか!?」

と言ってみたら、その学生がふと
「なんかちょっと一袋に入っているチップの数が少ない気がしますね」

と言ったので、
「おいおい、人のせいにするなよ」とこれまた冗談半分で言ったのだが、院生にはカチンと来たようで、何とその後チップの数を数えたそうな。

そうすると、何と驚いた事に、一箱に1000本入っているはずのチップが、831本しか入っていなかった!

まさか数えるとは思っていなかったのだが、これが本当なら問題だ。

チップの入っている袋はジッパー式になっているので、抜き取ろうと思えば抜き取れる。

でも、まさか・・・。

たまたま何かの間違いかもしれないので、念のため同じ業者から新品をもう二箱注文して、今度は私が数えたら、これまた850本ほどしか入っていなかった!もう一つの箱も1割以上も少なかった。

何てセコイことをするのか・・・

それから、数えるのにかかった時間を返せ!!!

もちろん業者は出入り禁止にしたが。

専門家ばかり

世の中が複雑になってくると、専門家が重宝されるようになるようだ。

私もある種の専門人、というか、かなり狭い範囲のことばかりやっている人間の一種だが、しかし、どうもいろんな専門家を寄せ集めてその意見をつまみぐいするようなことが世の中を滅茶苦茶にしているのではないかと思えてしかたがない。

社会というのは総合的複合的であって、たかだか狭い領域の専門家にすぎない人間が、大局的な見地から物事を判断できるとは思えない。

常々そういうことを思っていたら、新聞になかなか良いことが書いてあった。備忘のためにも引用しておこう。

専門と世論の野合

 一九二〇年代、J・バンダ(フランスの思想家)が「知識人の裏切り」を厳しく批判した。その論旨は、「何が真実であるかを判別するための基準をないがしろにして、当座の政治的な興味にのめり込む」現代の知識人が、人類の知識の在り方を狂わせているということであった。

 この指摘に続いてJ・オルテガ(スペインの哲学者)が、こうした「似非(えせ)知識人」の正体はスペシャリスト(専門人)であり、そしてマスマン(大衆人)の見本は専門人であると喝破した。ここで大衆人というのは、近代の主要な成果である「物質的な豊かさと社会的な等しさ」の上に安住する人間、といったくらいの意味である。

 今、専門人たちが当座の実践的な処方箋を物して名誉や地位を手に入れるべく−結果として金銭や便宜も手に入るとも予想して−政府の審議会や企業の相談会などのあたりを徘徊している。それが日常の光景となっている。しかも、彼らの処方箋が状況への誤診であると判明しても、責任をとるのは、政治家や経営者であって、専門人ではないときている。

 さらに、彼らの処方箋がおおむね誤診に終わることも強調しておくべきだ。それもそのはず、状況とは、そしてそこにおける物事とは、つねに多面多層の複雑な様相を呈しており、その物事の一つのアスペクト(側面)をしか扱うことのできない専門人などにはとうてい手に負えないはずの代物なのである。要するに「スペシ」ャリストとは、自分の眼にとっての「スペク」(見えるもの)にのみこだわってほかの諸側面に無関心な人間のことをさす。したがって、多側面を有する物事に実践的にはたらきかける資格なんかを、専門人は持ち合わせていない。

 専門人は、いかにして、自分がその資格者だと僭称するのであろうか。物事の全体的な輪郭にかんする解釈がすでに「世論」によって与えられている、と彼らは半ば無自覚のうちに構えている。たとえば、世論が公共事業悪玉論を訴えれば、その解釈に添う形で、財政や行政への改革処方箋が書かれる成り行きとなる。細かな分析を得意とする専門人と大まかな気分に流れる世論との野合、それが「専門人の裏切り」の実相なのだ。

 彼らにプレスクリプション(処方箋)の本来の意味を教えてやる必要があるのではないのか。それはプレ(あらかじめ)のスクリプト(脚本、規定)のことである。真っ当な「予規定」を探し当てること、それがあらゆる認識の大前提なのだ。

 保守思想の極意とでもいうべきものは、プレスクリプションを「時効」−持続の効果−と読んだところにこそある。時効とは「持続せる規定には汲み取るべき効力がある」と見定めることである。そしてその効力とは物事への全体的な判断にかんする英知のことをさす。それが伝統精神の尊重を意味することはいうまでもない。

 世論になびく専門人は大衆人であり、庶民の伝統を顧みるのが知識人である。現に進んでいるのは専門人の繁茂と知識人の枯死という精神風土の(オルテガの意味での)大衆化ばかりである。

(西部邁=評論家、秀明大学学頭)



どう生きるか

とにかく自分のやりたいことをやるために生きるのが人生で、だから職業も当然、自分の興味あること、やりたいことができれば良いと、若い頃は思っていた。というか、やりたい事しかやらないと決めていた。

自分がやりたいことをやって、それで食って行ければどんなに良いだろうかと。好きなことを仕事にできれば楽しく生きられるだろうから、そんな生き方をしたいなあと思っていた。

しかし、それは決して上等な考え方ではない、と、この年になってようやく気づいた。

むしろ「興味あることしかやりたくない」というのは「義務や責任という観念が希薄だから」であって、また「やりたいことしかできない」というのは「人間としての活力が低いから」なのではないかと、最近は思うようになった。

それから、ごく単純なことだが、好きなことでも、それを仕事にした瞬間に、ただ単純に楽しいとかそういうことではやってゆけないものだ。仕事としてやる以上は義務や責任というものが伴うし、他者からの評価というのも避けられない。

こんな事に最近になってようやく気づくとは、私もかなりのバカだなあ。まあ数年前にようやく気づいたという感じだが。

「やりたい仕事」というよりも「やりがいのある仕事」を選ぶべきかもしれない。

それによって「楽しい人生」というよりも「生き甲斐のある人生」を送りたい。

面白おかしく楽しいことだけやって過ごしていたのでは満足できない何かがある。楽しさの追求には限界がある。喜怒哀楽すべてがそろっているのが生き甲斐のある人生だろう。人間なんだから。

だから、生き甲斐のある人生というのは、そんなに特殊なものではないかもしれない。ごく普通に家族を持って社会人として暮らしていれば、そこにはいやでも喜怒哀楽すべてが切り離せないものとしてついてくる。時には危機もあるかもしれないが、それらを含めて必死に生きて、最後に人生を振り返って見た時に、はじめて生きた甲斐があったと言えるのでは?

そのためには、寿命の長短が問題なのではなく、人生の密度がやはり問題になってくるのだろう。

俺は密度の濃い人生を過ごしているか!?

うーん、怪しい。

しかしどうも私は「大器晩成型」のようなので、しぶとくジワジワ長生きしたほうが大成するんじゃないかと・・・

まあでも手相を見ると生命線が短いしあまり長生きはできないだろう(笑)から、もっと必死で生きなければ!

ところで手相と言えば、私は頭脳線がものすごく長くて、生命線よりも長いくらいなのだが、「ということは、俺って頭が良いのか?」と思ったが、頭脳線の長さと頭の良さは関係ないらしい(爆)。

いや、これは手相などあてにならないという意味ではなく、手相学的にも頭脳線の長短が頭の善し悪しを示すわけではなく、短いと直感的感覚的に物事を判断する、長いと論理的な思考パターンということのようだ。

そして私のように頭脳線がかなり長くて、しかもそれが手首のほうにむかって下降カーブを描いているのは、「ウジウジした内向的な性格」「物事をクヨクヨ考えやすい」「理想ばかり夢見て生活力が無い」性格らしい。

手相もかなりあたるんじゃないか!?

って、何の話やねん!

疲れた・・・

今日は人前で喋ったので疲れた・・・。あさってもまたある。

時給にするとかなり割が良い仕事のように思えたが・・・準備の時間まで合わせると・・・たいしたことない。昔やっていた塾講師の仕事みたいだ。

職場の兼業規定の範囲なので微々たるものだが、まあしかし、これと別のバイトで、合わせればどうにか年間の釣り堀代とレジャー費くらいはまかなえそうだ。

それにしても、ふと思い出してみると、私が学生の頃、というか数年前までは、学会の発表とか講義とかは、事前にスライド(35mmスライド)を作っておいて、当日に会場のプロジェクターで投影しながらしゃべったのだが、これは事前の準備が大変だった。

というか余裕をもって準備をしておかないと間に合わない。

原稿をプリントアウトして写真を貼ったりして、それを写真・印刷屋さんに持っていってスライドにしてもらっていたのだが、直前になって急がせたり無理を言ったりしたものだ。

それが、しばらくすると、職場にスライド作成装置が導入された。パソコンにカメラが接続された装置で35mmスライドを簡単に作れるようになった。フィルムとパソコンのデータさえあれば、写真・印刷屋さんに出さなくて良いようになった。

データの写真も昔は店で現像してもらっていたが、全部職場に導入されたピクトログラフィーという印刷機で印刷できるようになった。

そして最近はもう論文も全部電子投降になったので写真をプリントアウトする必要もなくなったし、Power Pointを使って直接ノートパソコンさえ持って行けばよくなったので、発表会とかでもスライドを作る必要がなくなった。

便利にはなったなあー。

おかげで、今回も直前にバタバタと講義用の資料を作っていたわけだけれども、昔なら確実に間に合わなかっただろう。いつでもどこでもパソコンさえあればできてしまう。ホント便利にはなった。

でも、学生時代にかなりお世話になった、大学前のあの写真・印刷屋さんは今頃どうしているのだろうか。まだやっているのかなあ。

勘弁してほしい

もうバラバラ殺人のニュースをしつこくやるのはやめて欲しい。

まあ見なけりゃ良いんだろうから、テレビを消すが。

だいたい、殺した妻との会話を電話を録音して、それを警察に証拠として渡すだけならまだしも、マスコミに売り渡す友人というのもかなりうさんくさい奴なんじゃないか?

犯人を「セレブ妻」と言ってみたりして、セレブの意味をわかっているのか!?「有名人」というような意味だぞ。「金持ち」みたいな意味と勘違いしているんじゃないか!?

それから、外資系投資会社の「エリート」サラリーマンという言い方もきにくわない。いつから日本はただ給料が多いだけの類の奴のことをエリートと言うようになったのか!?

べつにハゲタカの手先とまで言うつもりはないけれども。

本来、エリートというのは国や国民を導き、いざとなったらそのために命だってかけるような人間のことを言うもんだろう。

土日は忙しくてほとんどテレビなど見ていないのだが、チャンネルをひねるとろくでもないニュースばかりで、気が滅入ってしまう。一つ一つのキャスターのコメントが、これまた神経を逆撫でする。