カーク船長の娯楽日記

周回軌道上から地球を眺めつつしたためた恒星日誌
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欲望は身を滅ぼす

最近よく思うのは、年を取ったからか、明らかに欲望が減ってきたと言うことでしょうか。

考えてみれば、若い頃、自分が中学生、高校生くらいの頃、自分の欲望がコントロールしきれずに、欲望がなくなれば良いのにと何度思ったことか。主に生理的な欲望の話ですが。

最近、ある二世俳優が女性をレイプしたとかで逮捕された事件がありましたが、あれは欲望の暴走とはちょっと違うのではないかと思います。有名人になりたてなので、自分はイケる、「俺やで〜、ええやろ〜」と言う感覚だったのではないかと思います。調子に乗りすぎと言うやつでしょう。

性欲や食欲などの生理的欲求だけでなく、金銭欲、出世欲、名誉欲などいろんな欲望が人間社会に渦巻いています。そうした欲望が暴走すれば、犯罪、不徳、不正、裏切りなどから人生はうまく行かないでしょう。

しかし、だからと言って、欲望がまったくなければ良いかと言うと、そうでないところが難しい。

欲望がゼロだと意欲もゼロになるでしょう。金銭欲、出世欲、名誉欲などがゼロだとニートになるのが合理的選択です。金銭欲、出世欲、名誉欲が微弱だと、草食系人間になるでしょうし、欲望を排除したいと思えば出家するしかないのではないでしょうか。

だから、欲望がなければ良いとか言う話でもないところが難しいところです。

さらに、老化現象の結果、あきらめの境地に達して欲望がなくなると言うこともあります。私なんか、かなりそんな感じです。若い頃に欲望をコントロールしきれずに失敗した経験が悔やまれると同時に、あきらめの境地に達することに若干の危惧も覚えております。

しかし、釣りに行くとたくさん釣りたい欲望はいまだ健在です。

たくさん釣りたい欲望はどこから来るのでしょうか?狩猟本能的なものがあるのかな!?

なので、たくさん釣りたいと思う釣り人の気持ちはそれなりには理解できるのですが、それ以外の理由で釣りをする人が逆に理解できません。まあ、あまりいませんが。でも、それはそれで、何らかの欲望からそういう行動をしているのでしょう。

人間の行動をかりたてるのは、生理的欲求、本能的欲求、金銭欲、名誉欲、出世欲などでしょうか。いずれにせよ、どのタイプの欲望であろうが、露骨に見せられると辟易とするものです。

うまく欲望をオブラートに包んで、意欲、頑張りと言う形に見えるようには行動したいと思います。




欲望で思い出しましたが、マズローと言う心理学者が唱えた「欲求5段階説」と言うのがあり、ちょっと前にテレビで林修がこの説に触れていました。

自己啓発系の話が好きな方はよくご存じなのかもしれませんが、私はそういうのは全く興味が無く、書店でも自己啓発本がおいてあるようなコーナーには近寄りませんので知りませんでしたが・・・


マズローの段階欲求説

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第一階層の「生理的欲求」は、生きていくための基本的・本能的な欲求(食べたい、飲みたい、寝たいなど)。この欲求がある程度充たされると次の階層「安全欲求」を求めます。

第二階層の「安全欲求」には、危機を回避したい、安全・安心な暮らしがしたい(雨風をしのぐ家・健康など)という欲求が含まれます。

この「安全欲求」が充たされると、次の階層である「社会的欲求(帰属欲求)」(集団に属したり、仲間が欲しくなったり)を求めるようにます。この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなります。

ここまでの欲求は、外的に充たされたいという思いから出てくる欲求といわれます。

そして、次に芽生える欲求は、第四階層である「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい)です。ここからは外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求に変わります。

「尊厳欲求」が充されると、最後に「自己実現欲求」(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなど)が生まれます。

※ちなみに、マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表しました。それは「自己超越」という段階。
「目的の遂行・達成『だけ』を純粋に求める」という領域で、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態だといいます。



かならずしも、この順番で欲求の段階が上がって行くとは思えませんし、私などはいきなり五段階目を目指していたような気がしますので、それが不幸の元かなとも思いますが・・・

確かに低次の欲求が満たされればより上位の欲求へと向かうような気がしますが、最後の段階はほとんど宗教家のようですね。

マズローが言うには、自己超越の領域に達することができるのは、全人類の2%程度だそうですが、2%とはかなり多いですね。100人に2人ですから。

たまに家にやってくる、宗教勧誘の方々などはおそらくこの段階に達しているのではないかと思いますが、どう頑張っても彼らが幸福には見えませんし、あんなふうになりたいなどとは1ミリたりとも思えません(笑)。

ボランティア活動の方々とて、一切見返りを求めていないかと言うと、そうではなく、たしかに金銭的な見返り目当てではやっていないでしょうが、名誉や他者からの賞賛などが動機の場合もあるのではないでしょうか?

有名になりたい、人から賞賛を浴びたいと言うのも立派な「欲望」だろうと私は思いますし、金銭欲同様にそれらも決して美しい欲望だとは思えません。

だから結局、動機が美しいかどうかはあまり考えてもしょうがないのではないかと思います。どれだけ社会的に意義あることかどうか、それが重要になってくるのでしょう。

なんだか話がまとまらなくなってきたので、強制終了。
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意外な事実・・・

自分の感覚が世の中と大きくずれていると、なかなかしんどいものである。

人間には、「他者から認められたい」と言う欲求が少なからずあるのが常だが、自分の信じている通りに行動しても、たぶん世間からはあまり評価されない(世間のためになるのに)、自分の価値観から見て変なことをしている(世の中に有害である)人たちばかりがマスコミでもてはやされる。

あまり重い話をしてもしょうがないので、軽い話にしておくと、そんな1つの例、つまり私の感覚と世間の間隔のズレが、「嫌いなお笑いタレント」と言う調査にあらわれていたことを知った。

“嫌いな芸人”江頭が遂に陥落、V10阻みトップに立ったのは島田紳助。

実は私は「江頭・・・」は、かなり好きなほうのお笑いタレントなのである。

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それが、毎年「嫌いなお笑いタレント1位」だったとは知らなかった。

一位を陥落した事実よりも、今までずっと一位であり続けた事実におどろいたのである。まあ、でも常識で考えれば、あたりまえかもしれない。

私自身、こういう突発的かつ原始的で破廉恥なお笑いが好きである。もちろん、好きと言ってもファンと言うほどではなく、見れば笑うと言う程度ではあるのだが、しかし、同じお笑いなら、こういうくだらないもののほうを好む。

そしてむしろ、あまり知的で文化的な笑いは理解できないところがある。育ちが悪いのだろう(生まれつき?)。日頃から私は文化・文化と偉そうに言っているくせに、実体はこうなのである。本当は落語が趣味ですとか言ってみたいのだが、正直、さっぱりわからないのがコンプレックスでもある。

お笑いタレントに話をもどすと、実は、紳助みたいなのが好きではない。これは珍しく私と世論が一致してケースで、ほとんど希な例である。

正確に言えば、紳助みたいなタイプが嫌いと言うより、「うさんくさい」と感じてしまうほうである。口がうまく、人をまるめこむのが得意そうなタイプ、そういう人間の言うことは、私の場合頭から拒否してしまう。

彼の言うことは、最近とくに、面白くない、ウソくさい偽善的かつ説教臭い、そんな話が多い。

お笑いではないが、マスコミ関係者が重宝するタイプの文化人にも多い偽善者タイプである。だから世の中、いつもおかしな方向に世論が誘導されているのだと思う。

口のうまいやつには注意したほうが良い。
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勉強しよう!

学校での勉強が嫌いな子供が言いがちなセリフに「学校の勉強なんか世の中に出てから役に立たない!」というのがある。

このセリフは子供に限らず、社会で成功した人、一代で財をなした人なども言いがちである。

子供が言うのは勉強がいやだから、単に逃げているだけと言ってかたづけることも可能だが、成功者の言う言葉には重みがあるかもしれない。

私は個人的に、なんでもすぐ「役立つかどうか」という基準でものごとを考えるのがいやなので、こういう発想はしないが、1つの考え方ではあると思う。損得勘定で動く人には会う考え方なのかもしれない。

ただ、成功する人としない人は何が違うか。

「学校の勉強なんか社会では役に立たない」そう理解している人は多いし、それは正しいことだろうが、では「どういう勉強が役に立つ」のか、ここまで考える人は少ない。役に立つことを見つけて勉強している人はもっと少ないだろう。役に立つと思って勉強したことが無意味になる場合もある。だから、世の中で大きく成功する人は少ないのかもしれない。

役に立たないことはしない、でも何が役に立つかも考えない、考えられない、考えても間違っている。それが人間というものではないだろうか?

本当に自分のためになることを見つけて一生懸命それを勉強をしている人も、案外いないように思う。私も含めて。

私は、明らかに、何の役にも立たない無駄な勉強ばかりしているほうである(笑)。行動の基準が、面白いかどうか、好きか嫌いかなもので・・・勉強して得た知識が役に立つかどうかなど、あまり関係ない、どうでも良いと思っている。

何を勉強するか、何の努力をするか、それは価値観によりけりだろ。無駄と思える勉強も、たまにはしてみるものである。

人間には無駄が必要。あまり何でも無駄・無駄と言って切り捨てることばかり考えるのも、どうかと思う。

無駄と思って勉強したことで、長年自分が騙されていた、間違っていたことに気づくというのも、案外多いものである。
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変わりすぎ・・・

子供の頃は21世紀など遙か未来の話、そんな時代まで自分が生きているとは想像もつかなかったが、気づいてみれば今年は2011年、21世紀に入って、はや10年が経過したことになる。

中学生くらいの頃に想像していた未来とはまるで違う現実がおしよせてきている。

科学技術の進歩は当時予想されたものよりかなり遅れ、技術革新がすべてを解決する訳でもなく、科学技術万能の社会はやってこなかった。それどころか、技術がひきおこす弊害(の予想)に悩まされ怯える時代・・・

この点で変わったのは、昔は技術が起こした現実(=公害問題)に悩まされるということだったが、現在は、技術が起こしているかもしれない(まだ起こっていない)問題=環境問題、という点だろうか。

しかし、自らの経済活動やテクノロジーが引き起こす弊害に怯え続ける人類という位置づけは昔と何も変わっていない。

逆に、変わりすぎて私にはついて行けないのが、「日本人の価値観の変化」である。

とにかく変われ変われ、チェンジチェンジといって、自分では適応しているつもりなのかもしれないが、正直、自分を見失っているようにしか見えないが・・・

日本が経済発展していた時期は、むしろ金銭のことを軽蔑する風潮もどこかにあって、金より大事なものがあるというのは常識だったが、最近は、とにかく経済・経済と、不調だから言われるのかもしれないが、明らかにかわっている。

1つの大きな原因は、子供まで消費者にしてしまったせいではないかと思われる。

現代は「消費社会文化」が全盛の時代。金さえ払えばサービスが受けられて当然、消費することで何か一人前になれたような気分になる。

しかし、消費というのは一番虚しい行為である。

人間としての人生がどれだけ充実したものであるかどうかは、もちろん価値観にもよるだろうが、どれだけ消費したかではなく、どれだけ生産したか、ということではないかと思う。

なので、小さい子供にはまず生産するよろこびや学習する楽しみ、何かを作り出すことのすばらしさを教えるのが先だろうと思うのだが、めんどくさいのでとりあえず金を渡してそれでモノやサービスを与えてごまかしているが、小さい頃から消費する快楽ばかり教えてどうするのか。

どれだけ消費したかで人生の充実度は測れない。消費ばかりの人生は虚しいものである。

自分が死ぬときに、どれだけ楽しんだか、どれだけ遊べたかで満足して死ねる人は良いかもしれないが、実際には人はそれだけでは満足できないはずである。

私自身のことを考えてみても、平和で豊かな時代に生まれ育ったために、一般的な意味での人生の楽しみ、消費する快楽その他ならば、もうほぼ十分に体験して満足している。

だから、楽しんだかどうかではなく、もっとその先のこと、何をどれだけ作れたか、残せたか、問題をどれだけ解決できたか、生産できたか、発見できたか、理解できたか、ということに関心がある。

しかし、気づいてみると、人一倍、何も生産できていない、何も残せていない、何を発見も理解もできていない自分がいる。

そろそろ真剣に考えておかないと、残された時間が無駄になってしまうかもしれない。
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年頭所感

新しもの好きな人がよく言う言葉に

「従来の発想にとらわれていてはいけない。これからは○○である」

というものがある。

しかし、こういう発想こそ「従来の発想」そのものなのではないかと思う。カビくさい言葉であるが、これを新しい進歩的と感じる人が多いようで・・・

確かに、○○の部分は目新しいことを言っているかもしれない。

しかし、そういうことをよく言う人の発想はコロコロ変わり、中にはたまたま当たってうまく行くこともあるかもしれないが、それはあくまで偶然にすぎないし、たいていは目論み通りになど行かないものだろう。

変わるということがもてはやされるのは、現状に不満があるから、現実の人間というものが不完全だから、その不完全な人間が作る社会が不完全だからだろう。それはわかる。

しかし、どう変わるかを選択するのもこれまた不完全な人間のすることであるからには、その選択そのものも不完全なものに決まっている、そして当然のことながら、不完全な選択により変わった後の結果は、これまた不完全なものになると決まっているのである。

そうして世の中は堂々巡りを繰り返している。人間も社会も完全になることなど、そもそも無理なのだから。人間は神様や仏様ではない。

昔の人には偉い人もいて、そんなこととっくに気づいていたから、仏教では解脱という言葉があるのではないだろうか?しかし、神や仏に近づける人間などいやしない。いても、ごく一握りである。

不完全な自分、不完全な社会とどうつきあってゆくか、つきあわないか、それを考えるほうが時間を無駄にしなくてすむと思うが・・・

自分に与えられている時間が有限であるということだけは、変えようのない現実なのだから。

ウフッ
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