カーク船長の娯楽日記

周回軌道上から地球を眺めつつしたためた恒星日誌
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タチの悪いレトリック

それにしても、不思議なと言うか、おかしな言い回しが平然とマスコミによって行われているなあと思うことがしばしばあります。

その1つが、政府の予算執行(歳出)のことを「税金投入」と呼ぶことです。この言い方はミスリーディングな表現であり、悪質なレトリックです。

除染に数千億円の税金投入 来年度から復興予算使う方針

もっとひどいのになると、そのことを「国民負担」と言ってます。

国民負担、なぜ増加? =東電事故費用が2倍に

政府が予算を執行すること、もしくはお金を使うことは、「政府の負担」なのであって、「国民負担」ではありません。

マスコミは日頃から、政府のことをまるで国民の敵であるかのような言い方ばかりして、政府と国民はまるで別物のように言うくせに、この時だけは政府=国民と言う表現をしていますからダブルスタンダードですね。

政府の予算の財源には税金による歳入が充てられているのはその通りですが、税金は政府に納められた瞬間にはもう税金ではないです。意味わかりますか?

さらに言えば、政府の予算の財源は何も税金だけではありません。これは後で詳しく説明しますが、仮にすべて財源が税金だとしても、税金を払っているのは国民だけではありません。外国人だって日本国内で所得があれば所得税を払ってますし、消費すれば消費税を払っています。さらに言えば、法人税と言うのは法人が払っているわけです。法人は国民ですか?

だから、政府の負担を「国民負担」と言うのは二重、三重の意味で不正確です。たしかに一部は国民が払ってますが、新たに追加して請求されるわけでもありません。煽り言葉、タチの悪いレトリック以外の何物でもない。マスコミが自分の価値観にあわない政府の予算執行を批判するために使う扇情的表現です。

仮に財源がすべて税金だとしても、政府が予算執行してお金を使うと言うことは、取られた税金が納税した側にもどってくると言う話ですから、そこらへんがあべこべになった表現で、この表現によって多くの国民は完全に騙されている、錯覚していると思います。

政府がお金を使うと、まるで自分の財布からお金が減って行く気がしているのではないでしょうか!?だとしたら重症です。いつのまにか完全に財務省の立場になって考えています。洗脳です。どっちかと言うと逆なのに。

政府の支出は、「政府がお金を使うことによって、納税した側に税金が戻ってくる」と言うほうがよほど正確な表現ですし、「国民負担」と言う表現は実際とはまるで逆の意味になっています。言葉の使い方によって完全に逆の意味に錯覚させることができるとは恐ろしいですね。国語力が低下しているのではないでしょうか。

ただ、いずれにしろ、厳密には政府の財源は税金だけではないので、政府の支出を「国民負担」と言うのも「取られた税金が国民にもどってくること」と言うのも、どっちも正確な表現ではありません。

国の借金は将来の増税で返さなければならないから、将来世代へツケを回すことになる・・・と言うのも間違いです。間違いの元は、「政府の財源は税収のみ」と言う勘違いによるものでしょう。

そもそも、政府が利用できる財源は税金だけではありません。3つあるのが本来の姿です。

1,税収
2,国債
3,通貨発行

この3つです。政府の予算は税収で100%まかなわれなければならないと言うのは間違った考え方で、その間違った考え方を具現化したものが、「プライマリーバランス」と言う発想です。

そもそも借金はいけないんだとか考えているなら、それは間違いです。マクロ経済を常識や道徳で考えるのがおかしいのです。政府は借金ゼロでやる必用などありませんし、それはむしろ有害です。

基本的には借金があっても、償還期限が来た時にそれを返済できれば何の問題もありません。ちゃんとまわっていれば良いわけです。政府には寿命がありませんので、個人の借金のように死ぬまでにすべて返済してゼロにしなければならないわけではありませんので、家計(個人)とは違います。そういう点では企業と似ているでしょう。

そして、政府が企業とも違う点は、場合によっては借金を半永久的に塩漬けにもできると言うことです。もちろん無制限にやればむちゃくちゃになりますが、必用な量の借金を必用な時期まで返済しないと言うことも可能なのです。具体的には日銀が国債を買い上げて、償還期限が来ても日銀が保有し続ければ良いだけです。

もう一つ、本来、政府と言うのは通貨発行もできたはずなのですが、インフレを悪化させると言う理由で現在ではできなくなっています。そのかわりに、国債の貨幣化(マネタイゼーション)と言う方法があります。

この「国債の貨幣化」のことを通俗的表現で「財政ファイナンス」と呼んで批判する人たちがいますが、おそらくデフレ利得者たちかと思いますが、デフレの時は普通にやるべき政策です。

政府が通貨発行してそれを予算にすると言うことですが、通貨発行は日銀にしかできないので、実際には「政府が発行した国債を日銀が直接に引き受けて、それを財源にすること」です。これをやらないからデフレから脱却できないのはもう明らかです。

日銀が反乱でも起こさない限り日本政府が財政破綻することはありませんので、「国の借金」の名目額が増え続けても名目GDPが増えれば何の問題もないのに、緊縮財政ばかりが進められる(結果としてGDPが増えない)のは、マスコミが愚かなせいだと思いますが、これは本当に深刻です。

政府の予算執行のことを「税金投入」と呼ぶのは、右派・左派に関係無くマスコミに共通しています。出所はマスコミに影響力の強い財務省あたりだと思いますが、この表現がいかに深刻な事態を招いているか、まったく理解されていないのが恐ろしいです。

日本は、国の借金では滅びませんが、デフレや経済成長の停滞によって間違い無く発展途上国に逆戻りです。国の借金が増えても誰も死にませんが、景気悪化や経済の停滞ではたくさんの人が死にます。

現役世代が苦しめば、そもそも将来世代は生まれてこないので、存在しなくなります。政府がお金を使うことを悪いことのように言うのは、もういい加減にしたほうが良いです。緊縮財政をやるくらいなら、無駄使いのほうがまだマシだと知りましょう。もちろん、一番良いのは有効な財政出動ですが。
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信じる者は救われる!?

世の中の人を、「信じやすい人」と「疑り深い人」との二つに分けると、自分はどっちかなあなどと考えることがあります。私は意外にお人好しで結構騙されやすいから、「信じやすい人」のほうなのかなとも思いますが、どうでしょう!?まあ、昔は疑り深かったですが、でも、「疑り深い人」が騙されないかと言うと、かならずしもそうではなく、同じかもしれません。

と言うか、一般的に「疑り深い性格」と言われているものは、他人にたいする猜疑心の強い人のことで、そういう人でも自分の判断は信じていれば、それは本当に疑り深いことにはならないでしょう。

他人を信じず自分は信じるなら、それは疑り深いのではなく、自信過剰もしくは自己中心的な人、と言うだけです。本当に疑り深ければ、自分自身の判断能力ももそう簡単には信じないはずだからです。

他人を信じないが、自分の断定を安易に信じるならば、その人は「信じやすい人」のほうに分類されるでしょう。だから、これはこれで間違いやすかったり騙されやすいと思います。

人間関係のトラブルの大半は相手の言動に対する誤解が原因だそうです。いちおうそういう調査があるらしいです。これは信じるのか!?と言う話になりますが(笑)。でも、自分の判断や認識が正しいと言う保証もないでしょう。

あと、猜疑心の強い人に対して、その「他人を信じない性質」を利用して何かを信じさせて騙すと言うことが可能だそうです。たとえば、「既得権ガー」が良い例でしょう。最近の政治家は自分たちに支持を集めるために、壊してはいけないしくみまでもを「既得権」と言って批判します。社会全般に対する猜疑心の強い人は、そういう政治家を改革者と勘違いして支持し騙される訳です。小泉改革が良い例です。

自分は疑り深いと思っている人のほうが騙されやすいと心理学的に証明されている、と言う話もどこかで聞いたことがあります。またまた、その話は信じるのか!?と言う話ですが。

本当の意味で「疑り深い人」で思い出すのはやっぱり哲学者のデカルトでしょうか。高校時代に習った「倫理・政治経済」と言う科目の中でデカルトについての説明がありました。



このデカルトと言う人は方法序説と言う著書の中で「一切を疑うべし」と言ってました。こいつは本当に疑り深いやつだなと思った記憶があります。まあ学問ですから。疑うことが学問の出発点になると言うのはよくあることです。

「一切を疑う」思考方法のことを「方法的懐疑」と言うらしいですが、wikipedeiaを要約しますと以下のようになります。

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。

“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。



高校時代にこれを習って、最初はなるほどと思いましたが、しかし自分の意識と言うものが一体何かと考えると、「自分はなぜここにあるのか」と考えることがどうして存在の証明になるのか、またまたわからなくなります。少し飛躍があるようにも思います。

と言うふうに、本当にすべてを疑うと何も信じられなくなり、かえって思考停止してしまいます。

信じると言うことは決断して先へ進むために必用なことで、何も信じない=他人だけでなく自分すらも信じないのでは生きて行けません。

まあ、でも一般に「疑り深い性格」と言えば、他人の言うことを信じない性格、他人を疑う性格と言う意味でしょうから、ここでは、本当に疑り深い性格=他人も自分も信じない性格と定義しておきます。

なので、本当に疑り深い人と言うのは、表面上見えるものをそのまま信じず、だからと言って証拠が不十分なうちは何の判断しない人だろうと思います。でも、そんなのは不可能に近いでしょう。何かしら判断しないとどうにもならない場合もありますし、判断せず保留しつづける、わからないままにしておく、と言うのは結構なストレスです。

判断しないと生きて行けないだけでなく、判断せず保留にしておくことそのものがストレスになるわけです。

人間と言うのは、何かわからないことがあって、それをわからないまま考え続ける、判断材料を探し続ける、と言うことが苦手なものだと思います。人間の脳はエネルギーを節約しようとしますから、あれこれ考え続けるより、適当に判断してしまうものでしょう。だから、疑り深い人も、人と違った解釈をするだけで、結局その結論が正しいかどうかはわからない。断定の仕方が雑だとかえって間違った結論にとびついているかもしれない、だから間違えやすい、騙されやすいと言うことなのかなと思います。

簡単に結論に飛びつかづに考え続けると言うこともかなりエネルギーのいる作業なのだろうと思います。そういう時は、他人か自分かのどっちかをさっさと信じてしまうほうが楽でしょう。信じる者は救われる、と言うのは本当なのかもしれません。

実を言うと私は、自分自身もあまり信じていません。あてになりません。だから思考がフリーズしてしまうことがよくあります。考えないようにすることもあります。これは、場合によっては良い方法です。昔はこれができなかったから苦労しました。

日常生活で何を信じるかについては、まあ適当で良いでしょう。昔は科学や医学の分野ですらデタラメがまかり通っていましたから。政治学は価値観ですから真偽とは別の要素があるかと思いますが、経済学なんかはいまだにデタラメが主流派をしめていて、社会に害悪をまきちらしていますが。



ちょっと前まではデタラメが結構あった医学の分野では、最近はそういうのはかなり排除されて急速にマシになっています。

最近の医学では「エビデンス」と言う言葉がよく使われていて、もともと「根拠」とか「証拠」とか言う意味の単語ですが、医学の分野では「科学的根拠」のことです。正しい方法で行われた実験や観察と統計的手法により導き出された根拠があるかどうかです。

でも、もちろん、まだそうでなないものも残っていますが。



この方が巧妙だなと思うのは、こういう本も出しているんですよね。



そして、インフォームドコンセントで、最終的には患者自身、あなた自身が判断してくださいと言う方法に持って行くわけです。それでひどい目にあっても、信じた自分(患者)が悪い、信じてしまった以上は訴えることもはばかられると言うわけです。インフォームドコンセントと言うのは、医師の責任を軽くして、そのぶん患者自身に負わせる責任を増やすと言う側面もあります。

そして、この先生も、お得意のフレーズは「医学会の既得権」です。だから、何かと言うと「既得権ガ−」な話をすぐ信じる方々は要注意です。マスコミ関係者は、なんでもすぐ「既得権ガー」な話に持って行きたがりますし、「既得権ガー」と言えばみんな信じて買いますから、売れるわけですね。「B層」を信じさせるのには一番手っ取り早い言説なのです。

民営化と小さな政府で責任を切り離して自己責任の社会。既得権を批判することで騙して支持を集める・・・まるで新自由主義の政治家と同じですね(笑)。

いずれにせよ、この方の理論はエビデンスが無い言説、もしくはエビデンスをゆがめて引用しれていると批判されている治療法です。信者の方々から突っ込まれると面倒なので、こちら参照。



どちらがまともな思考にもとづいているかは、私ならば下の本と答えます。

あと、エビデンスが無い、一部の医師の説にすぎないものと言って良いレベルのものに、こういうのもありますね。



まあ、カロリー摂取も減るから痩せるのは間違い無いでしょうが、特に、安全性に関するエビデンスはないでしょうし、糖質が本当に不要だと言うことのエビデンスも無いと思います。だからこれは一医師が言っている「仮説」にすぎないと思われます。それを信じるのは、ちょっと「信じやすい人」でしょう。いや、ちゃんとしたエビデンスがあると言う方がおられましたら、その論文を教えて下さい。

まあでも世の中を飛び交う言説において、エビデンスのあるものはむしろ稀です。テレビ番組で、よく、事実かどうか科学的に検証・・・などとやっていますが、ほとんどが正しい方法で行われていません。論文審査ならreject(却下)です。

それなりのサンプル数と対照と実験回数が必用で、最終的に目的のサンプルと対照との間に統計的に有意な差があるかどうかを判定しなければなりません。そういう実験を一種類だけではなく色んな角度から検証してはじめて、科学的根拠にもとづいた結論が導き出されるわけです。

釣りで釣れるかどうかも、エビデンスを重視したほうが良いでしょう。

こうやれば釣れる!みたいなことを1回や2回試しただけでは証明されたことにはならないと言うことですね。その点、船頭さんは毎日出船していろんな状況を見て経験が蓄積していますから、色々試してもいるしサンプルも豊富だから統計的に意味のある結論を導き出せるわけで、従って、経験豊富な船頭さんの言うことはエビデンスに基づいていると言って良いかと思います。
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「こち亀」終了

こち亀が連載開始から40年の単行本200巻で最終回を迎えるとか・・・

第1巻と第199巻の表紙


絵がずいぶん変わっているようですね。キャラクターも?199巻の表紙のツリ目の女は何者でしょうか!?

それにしても、連載がいまだに続いていたのがびっくりですし、40年間で1度も休載がなかったとか。思わず、昔の広島カープの衣笠を思い出しました(笑)。

小〜中学生の頃は大のマンガ好きでしたし、特にギャグマンガが大好きだったのでもちろん読んでました。ジャンプを読んでいたのは高校生くらいまでかな!?1980年代中頃あたりで、当時連載されていた主要なマンガ(北斗の拳、キン肉マン、聖闘士星矢、ドラゴンボール、等)がひたすらバトルばかり繰り返しているので嫌気がさしてジャンプそのものをあまり読まなくなりましたが、「こち亀」は単行本が出たら買わないまでもどこかで読んでました。たぶん大学生くらいまで。

でも30代になるとごく一部を除いてマンガを読まなくなったので、たぶん最後に「こち亀」を読んだのは、もう20年くらい昔と言うことになるでしょう。でも、記憶があるだけでも100巻まで達していなかったので、もっと昔かも!?

ちなみにこちらが「こち亀」の200巻の表紙のようです。

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左側の制服を着た女と小さい子供2人が誰かわかりません。あと、大原部長がいませんが、どこへ消えたのでしょうか!?いつのまにか主要キャラからはずされたのでしょうかね。

個人的には、バイクに乗ると人格が変わる本田とか、改造パトカーを爆走させる前田とか、オリンピックの年だけ目覚めて事件を解決する変な警官などが懐かしいですね。

ごく初期の頃、このマンガをはじめて目にしたのは、私が小学校の頃にラーメン屋に置いてあった単行本の1巻だったと思います。その頃はまだ作者が本名の「秋本治」ではなく、「がきデカ」の作者「山上たつひこ」をもじって「山止たつひこ」と名乗っていた頃でした。

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ところが、私ははじめ「山止(やまどめ)」であることに気づかず「山上(やまがみ)」と思って、つまり、「がきデカ」の作者の別の作品かと思って読んでました。どっちも警察ものですし(笑)。当時は「がきデカ」連載中の少年チャンピオンが全盛期で毎週読んでおり、少年ジャンプは読んでませんでしたし。



しかし、それにしては絵も作風もまるで違うし、これはおかしいなと。しばらくしてから、山上ではなく山止となっているので、なんだ別の作者か、それにしても紛らわしい、偶然だろうかと不思議に思っていましたがそのまま忘れており、中学生になりジャンプを毎週読むようになってふたたび「こち亀」をひさびさに見かけたら、いつのまにか作者の名前が「秋本治」にかわっていたので混乱したものです。

wikipediaにその経緯がのっており、当初は、「山止」を名乗るのは「こち亀」だけにして、次の作品から別の名前に変えるつもりだったようですが、予想外に長く続いたようですね。

母の死をきっかけに、1976年(昭和51年)、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以下『こち亀』)を新人賞に応募する。月例ヤングジャンプ賞入選作品(4月期)に選ばれ、山上たつひこの名前をもじった「山止たつひこ」名義で、『週刊少年ジャンプ』26号(6月22日発売)に読切として掲載される。賞へ応募した際のペンネームは、さらに石ノ森章太郎のもじりも加えた「岩森章太郎改め山止たつひこ」(岩森章太郎での活動はない)であった。長いタイトルとペンネームは自分の投稿が編集者の目に止まるようにという理由からであった。

『週刊少年ジャンプ』1976年42号(9月21日発売)より『こち亀』の連載を開始。編集部からは「この漫画ではこの名前で、終わったら本名にしてもいいよ」と言われており、本人も短期で連載終了するとばかり思っていたものの、予想以上に人気が出て連載が続き、さらには「本家」の山上たつひこからクレームが出たこともあり、100話目を機に現在のペンネーム(本名)に改めることになった。それまで山止名義で刊行されていた単行本第1巻 - 第6巻は増刷の際に秋本治に改められた。秋本は後年に「山上たつひこ先生に本当に申し訳ないことをした」「若気の至りとはこのためにあるような言葉です」「なんて大それたことをしたんだ!と思う」など反省の弁を述べている。


なんと、デビュー作だったんですねー。知りませんでした。それが40年も続いたとは驚きですし、と言うことは、この作者には他に代表作が無いと言うのも驚きです。

そんなこち亀もようやく最終回と言うことで、最近はまったく読んでませんでしたが、9月23日までkindleで一部の巻が無料で読めるようなので、ひさびさに読んでみたいと思い、ダウンロードしました。

無料で読めるのは1巻、10巻、20巻、30巻、40巻、50巻、60巻、70巻、80巻、90巻、100巻、110巻、120巻のKindle版です。

さっそく昨晩に、Amazonで順番にワンクリック購入していたら、70巻と80巻だけ間違えて有料のほうを購入してしまい課金されてしまいました。ガビーン。

ちなみに、Kindleの電子書籍も返品できますが、紙の本の場合と違って購入してすぐでも返品手続きがちょっとめんどくさいです。

紙の本の場合は、発送前ならワンクリックでキャンセルできますが、電子書籍の場合はAmazonのホームページの一番右下にある「カスタマーサービスに連絡」の部分から入って手続きをしなければなりません。そこからカスタマーサービスにEメールで返品をフォームに従ってお願いすれば、数日中に返金されます。ちなみに、返金されるまでの間は読むことができます。

以前に返品した場合は返金までに2,3日かかりましたが、今回は半日で返金されました。あらためて期間限定無料版をダウンロードする予定。

それにしても、こち亀を読むのはもう何十年ぶりです。しばらくは無料で読めるぶんだけ「こち亀」を読んでみようと思います。

昨晩には1巻と10巻だけとりあえず読みましたが、今読んでもそれほど面白くはないですね。ただ懐かしいだけで。これも老化現象かなあ。まあ通勤電車の中での暇つぶしくらいには十分なりますが。

(追記)20巻、30巻、40巻、50巻・・・と読んだらなかなか面白かった。これは、200巻ぜんぶを買うのはお金がもったいないし、やはり暇な時にでもマンガの置いてあるネットカフェへ読みに行くかな・・・
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読書疲れ

iPhoneおよびiPadにて、電子書籍を読みすぎて目がおかしくなった(笑)。

文字を大きくできるので読みやすいので、調子に乗って電車の中やら帰宅後にひたすら読みふけっていたら、目がしょぼしょぼ、左目がぼやけて見えにくく・・・

と言うことで、昨日あたりから一休み。

またまた数日で2冊も読んでしまったためで、ちょっと夢中になりすぎたので反省。

ジョージ・オーウェル「1984年」



中盤までは面白く読んだが、終盤の、拷問まがいのことをされて洗脳されて行く過程は、はっきり言って読むのが苦痛でしんどかった。

昔に読んだはずですが、こんな話だったっけ!?

新訳版だから、と言うこともないと思うが、昔ならたいして刺激にもならなかった部分が、今では苦痛に感じたりするのかもしれず。想像力や読解力が昔より増したのかも。

「1984年」が思ったより早く読み終わったので、また電子書籍を購入。今度は小松左京の代表作(と私は思いますが)、「果てしなき流れの果てに」をば。



電子書籍なので紙の本のように実物があるわけではないが、いちおう表紙があり、この表紙が懐かしい。昔私が持っていた文庫本の表紙と同じなので。

今、書店で紙の本のほうを買うと表紙が違っている。



昔ながらの表紙が見られただけでも懐かしかったから半分ほどは満足かな。

内容は、これまた昔読んだはずだが、まったく覚えておらず新鮮な気持ちで読めたが・・・でもなんとなく壮大な話、先日読んだクラークの「幼年期の終わり」に通じるようなテーマもあることは覚えていたが。

話の展開が時間と空間をまたいでおり、時間軸は恐竜が跋扈する中生代白亜紀の過去から現在〜近未来〜遙か未来〜時間の存在がなくなるその先を、そして場所も地球上の日本〜どこかよくわからない恒星系の惑星〜「宇宙の外」とかだったり(笑)。

まさに時空をまたいで登場人物が右往左往して話が展開するので、さっさと読まないと忘れてしまって訳が判らなくなるので、一気に読んだ。

高校時代に読んだ時には途中で訳がわからなくなってまた戻って確認したり、メモしながら読んだりとかだったが・・・今回はまあどうにか戻らず読めたので、やはり読解力は増しているのかな!?話の内容は完全に忘れていたが。

そして、不覚にもラストでうっすら涙ぐんでしまった。昔は1ミリたりとも涙など出なかったが。これも老化現象だろうか。

先に書いた通り、話の舞台があっちこっちへ飛躍するが、書かれた当時の日本(1960年代)が舞台になっている部分が多く、しかも関西(大阪南部〜和歌山)なので、なじみのある地名がたくさん出てくるから、その点は高校時代よりもはるかに読みやすかった。さすが関西人の小松左京。

話の設定としては、クラークの「幼年期の終わり」と共通の部分があり。この宇宙には知的生命体の進化や維持を管理する「管理者」的な存在がおり、人類の進化に対してもその高度な知性を持つ存在(エイリアン?)が関与しているというような部分など。

おどろいたのが、現代の人類が過去に連れ去られてネアンデルタール人と交配させられていたと言う描写だった。この小説が書かれた当時から知られていたっけ!?

現代人のうち、アフリカ系以外(つまり白人および黄色人種)はネアンデルタール人の遺伝子をかなり持っていることがわかったのは、つい最近のことで(ネアンデルタール人の骨からDNAを採取して分析した結果)、この小説が書かれた当初は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交配できないと考えられていたと思うのだが・・・

当時から現代人がネアンデルタール人の血も引いていると言う説があったのだろうか!?いずれにしろ、この部分はさすが小松左京!とうなってしまった。

話をもどして・・・人類の進化が宇宙の高次の存在により管理・促進・調整されてきたと言う設定が前面に出ている作品が、クラーク(とキューブリック)の「2001年宇宙の旅」ですが、具体的にどういう存在が管理者なのかは説明なしで、モノリスと言う石版が人類進化の触媒になっていたことが示されていただけ)。

「幼年期の終わり」のほうでも、そうした「管理者」的な存在は間接的かつおぼろげにしか出てこなかった(テーマの本筋でもなかったし)。

しかし、この作品ではその正体まで説明されていて、宇宙そのものが生命体のように意識を持っている複雑な存在であるかのようなことになっていている。その説明はわかりにくいが。

ちょっと手塚治虫の「火の鳥」の設定なんかを連想したが、あれともまた同じではなく、でもいずれも後のSFに影響を与えた部分があるのかなあと思って関心した。

それにしても、小松左京は知識が豊富すぎて参ることを思い出した。この作品はまだマシなほうだが。時間や空間についての説明ではわけわからん部分も多い。説明過剰と言うかなんというか。

しかし、その小松左京にしても、近未来の日本がどうなっているかの予測ははずれまくりの陳腐すぎだったのにはおどろき。

書かれたのがちょうど50年前、そして、この小説のラストが2016年(今年!)の日本と、なんとも偶然だが、小説の途中で1970〜2016年くらいの日本がどうなっているかの描写が延々と書かれている部分があり、その部分(もちろん小松左京の執筆当時の予測)が実際の歴史とまるで違っている点が興味深かった。

小松左京ほどの知識を持った人、しかも科学だけでなく政治・哲学・文化・文学の分野で幅広くそして深い知識を持った人ですらも、50年後の日本がどうなっているか予測をはずしている、単に当時の延長でしか予測していないのがおどろきだった。

したがって、彼より遙かに愚かなマスコミに出てくる今現在の知識人が将来にたいして有用な知見を有しているとはとても思われまない。あまり知識人の言うことを真に受けないほうが良いだろう。

まあでも、ひさびさに読めて楽しかった。この調子で電子書籍をもっとガンガン読んで電車通勤の楽しみが増えたと思っていたが、そんなことをすると目がボロボロになるのでほどほどにしておこう。

次はどっちかを読む予定。

ジェイムズ P.ホーガン 「星を継ぐもの」


フィリップ K.ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」


しかし 「星を継ぐもの」を読んでしまうと、これはさらに続編があるので長丁場になりそうだし、「電気羊・・・」のほうにしておこうかな。

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世間とズレた関心

音楽や映画鑑賞、テレビ番組、読書と言ったジャンルでは人々の関心は世の中の流行から影響を受けるものだと思いますが、私の場合その傾向がどんどん減ってきています。

私の場合もともと、大ヒットしているから、とか、みなが面白いと言っているから、とか、流行しているから、とか言われてもまったく関心が持てなかったのですが、最近はそれどころか、流行と言うものをむしろ忌避してしまうことすらあるので困ったものです。

最近は特にその傾向が強くなってしまい、自分の関心の向くままに読書したり音楽を聴いたりしています。

ちょっと前には高校〜浪人生時代によく読んだ夏目漱石などを読み返してみたり。しかし、何か足りない。

そこで、高校時代にもっと強く衝撃を受けたSF小説を読んでみることに。調べて見るといくつかの作品では「新訳版」が出ていました。

高校時代にはまったSFと言えば、日本人の小松左京を除くと、当時(今でも)早川書房から出ていたSF小説で、私の好みの作家は当時好きだった順番に並べると

アーサー C.クラーク
ジェイムズ P.ホーガン
フィリップ K.ディック
アイザック・アシモフ
ロバート A.ハインライン(の一部)

あたりですが、その筆頭である「アーサー C.クラーク」の初期の傑作である「幼年期の終わり」と「都市と星」の新訳版が出ていることを知り、電子書籍で購入。通勤途中だけで読むつもりが、帰宅後にも読みふけり、あっと言う間に読んでしまいました。

高校時代に持っていた文庫本の表紙はこんなんでしたが・・・

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今ではこんな表紙に。まるで「2001年宇宙の旅」みたいな感じですが・・・



新訳版はこんな表紙に・・・

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昔のに負けないくらいイマイチな表紙です・・・。

内容はやはりすごかった。この作品を、何と1953年に書いたと言うのだからすごいですね。ただし、当初はプロローグ部分が米ソの冷戦下での話で20世紀後半が舞台設定だったところを、1990年に書き直して、「21世紀のある日、多国籍の火星探査隊出発目前」という設定に変更されたが、そこ以外の内容のほとんどは変わっていない様子。

地球上に突如としてエイリアンの宇宙船がやってきて・・・と言う話ですが、彼らは特に地球を攻撃したりとかではなく、そのエイリアン(オーヴァーロード「上帝」と呼ばれていた)の代表であるカレランは、(何故か)国連事務総長を通じて地球を実質的に支配し、国家を解体して国同士が争うのをやめさせ、世界統一政府のようなものへと以降させ、人類史上なしえなかった平和で豊かで安定した社会へと改造して行く。

そこで描かれる理想の社会は今読むとかなり陳腐なものに思いましたが、それを除けば内容はなかなか興味深いものでした。

前半部分の謎は、オーヴァーロードが決して姿を見せないことでしたが、その謎は第二部で解かれて、その姿は悪魔そっくりだからと言うことでしたが。

あとは要約するのがめんどくさくなってきたので、興味ある方は(あまりいないでしょうが)Wikipediaの「幼年期の終わり」を参照のこと。

最後は人類が滅亡・・・と言うか、ある世代を境にして、すべての子供たち(大人は除く)がすべて集まって一つの生命体のようなものへ進化してしまうと言うもの。

今考えると、この設定はその後のいろんなSF作品に影響を与えているような・・・。

序盤では「宇宙人による人類の飼育」、中盤では「種としての未来の記憶=予感」、そして終盤では「人類が別の次元の存在へと超進化する」と言うあたりが、その後のいろいろな作品やら宗教めいたものやらに影響を与えた、もしくはその先駆けになっているのではないかと、あらためて確認した。

これを1953年にすでに書いていたとは、おそるべし、アーサー C.クラーク。

でも小松左京の「果てしなき流れの果てに」も負けないくらいすごい作品だったと(過去の記憶なのでたぶん)。



この作品で1965年ですから、クラークの幼年期の終わりより12年も後ですが、それでも私が生まれるより昔です(笑)。

話をもどして、「幼年期・・・」を予定より早く読み終えてしまったため、もう一作を購入。

アーサー C.クラーク「都市と星」(新訳版)



これまた、「幼年期・・・」とは違う意味で面白かった。これは遙か未来の話なので今読んでも陳腐な部分は一切無く、冒険小説的に読むことができた。

高校時代にはイマイチよくわからない部分もあったが、今読むと、さほど難しいことは書いておらず平易な内容に感じました(新訳のおかげ?)。

そして次に何を読もうか迷いましたが・・・

小松左京にするか、フィリップ K.ディックにしようか・・・



これもなかなかの作品だった記憶がありますが(「ブレードランナー」として映画化)。

まあでもどうせ買うからには昔買ったのとは違う新訳版があるもののほうが良いかと思い、SFではありませんが、近未来ポリティカル・フィクション?ジョージ・オーウェルの「1984年」にしました。



これは、1948年に書かれた近未来小説(今だと過去ですが・・・)で、内容の要約が面倒なのでAMAZONの作品紹介から引用しますと

“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。



なんかよくわからんので、Wikipediaからのあらすじの引用は

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。



確か、スターリン支配のソ連をモデルにして全体主義を批判的に描いたディストピア(ユートピアの逆)小説だと思います。

村上春樹の小説「1Q84」は、そのタイトルからたぶんオーウェルの「1984年」と関係あるのかもしれませんが、どうも関心が持てずに読む気はありませんが。

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