カーク船長の娯楽日記

周回軌道上から地球を眺めつつしたためた恒星日誌
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日本に「リベラル」は見当たらない

最近よく「リベラル」と言う言葉を聞きますが、なんかおかしな使われ方をしています。政治的な主義・主張における「リベラル」の本来の意味と、たとえば「民進党のリベラル派」などと言うときの「リベラル」の意味は違っているように私には思えます。辞書的には「liberal : 寛容な〜、自由主義の〜」のような意味ですが。

日本では主に「護憲派、安保法反対派」もしくは「ハト派」のことをリベラルと言っていますが、本来の意味とは違います。「タカ派とハト派」的な構図は多少はどこの国もあるかもしれませんが、護憲派と改憲派と言う対立軸そのものが、日本独特のものですし、いずれにせよ、世界的には「ハト派」が「リベラル」と一致するとは限りません。

また、リベラルは多様な価値観を尊重するわけですから、自分が「善」と思わないものを「善」と信じる他者とも共生しようと努力する考え方なので、自分の信じる「善」を振りかざして、相手を排除するのはリベラルな態度ではありません。この基準に当てはまるような政治家・言論人等は、ほとんど見当たりません。私は改憲派・護憲派の両方の言論を見ていますが、どちらも相手を口汚くののしり悪者にする人たちばかりです。「多様な価値観を尊重せよ」と「リベラル」なことを言っている人たち自身が自分たちと違う価値観の人を悪として排除しようとしているくらいです。

さらに、「リベラル」ならば「福祉国家」を目指す「大きな政府」になりますし、経済的弱者の救済を優先しますので、逆進性の強い消費増税などするはずありません。財政規律より財政出動を優先するのが他国の「リベラル」です。

ところが、日本の「リベラル」と言われている政治家たちは、自民党とかわらず財政健全化という名の「緊縮財政路線」=「小さな政府」なので、つじつまがあいません。まあ、日本人のほぼ全員が「日本は財政危機」と言うウソを信じているせいで「小さな政府」路線しかなくなっているのかとは思いますが。山本太郎ですらこの財務省発のウソに最近では気づき始めたようですが・・・放射能より怖い放射脳な彼が言うと逆効果なので心配です(笑)。

いずれにせよ、日本のリベラル派と言われる人たちは、おそらく憲法とか安保とかばかりに熱心で、弱者と言ったら差別されているような極端な弱者のことだけ(これも大事ですが)で頭がいっぱい、一般の国民が徐々に貧しくなり中間層が貧困層に転落しているような「地味」な弱者の増加問題には関心が薄いのではないかと思います。ここらへんは、実は世界のリベラル派にも共通しています。そのために、左派のサンダースやメランションだけではなく、右派のトランプやルペンが支持を増やしたわけです。主に先進国で貧しい労働者階級が増えているのに、既存のリベラル勢力は無力です。

それはともかく、日本に本当の意味での「リベラル」勢力は見当たりませんし、世界的にも「リベラル」は退潮ぎみです。では、本当の意味でのリベラルとは何か!?

政治哲学者のマイケル・サンデルは、リベラルな思想=リベラリズムを、政治を行う上での基礎となる価値観(政治哲学)の一種に分類しています。そうした価値観にはリベラリズムの他にも3つあり、順番にサンデルの分類に従って紹介したいと思います。



この本に書かれていることですが、要約はこちらを参考にしました。



政治哲学の基礎となる4つの「主義」

(1)「功利主義」、(2)「リベラリズム」、(3)「リバタリアニズム」、
(3)「コミュニタリアニズム」


人々の「幸福」について何を重視するかによって上記の4つに分かれるようです。その基準は、「幸福の総量」か「権利」重視か「義務」重視かです。



(1)幸福の総量重視
「功利主義」(ジェレミー・ベンサム)

「功利主義」は、個々人の喜びを増やし苦しみを減らすことで、社会全員の幸福の総和を最大にしようという考え方です。一人一人の喜びや苦しみを「量」として把握した上で、喜びから苦しみを引くとその人の幸福がわかる。その量を合計し、最大にするのが正しい行為であり政策だという考え方です。


→「最大多数の最大幸福」と言う考え方だが、二つの点でおかしい。

①「幸福」が定量可能であると考えている点がおかしい。
②いじめが正当化されてしまう。

特に②は致命的で、例えば10人で構成されている社会があると仮定して、その10人全員が幸福度70点の社会は合計700点ですが、例えば10人中の9人が80点で1人だけ0点の社会では合計720点となって、こちらのほうがよりよい社会と言うことになってしまいます。多数がより幸福なら少数は不幸でも良いと言うことになりかねません。



(2)個人の権利重視・その1
「リベラリズム(自由主義)」(ジョン・ロールズ)

「リベラリズム」は、通常の基本的人権として考えられる結社の自由、言論の自由といった政治的自由を尊重するとともに、いわば福祉の権利も重視します。そういう意味では福祉国家の思想ということになります。


→「自由」「平等」「友愛」と言うフランス革命のスローガンに1番近い考え方かと思います。私なりに解釈すれば、政治的には「弱者」=マイノリティの保護や権利の保障などを重視し、経済的には規制や所得再分配などの福祉政策により「弱者」の自由を政府が保障すべきとする考え方になると思います。

つまり、「弱者」「少数者」の自由や権利を政府が保障する(そのため強者の権利は一部制限される)と言う考え方です。当然ながら、強者を規制するわけですから、政府の権力が強くなければそれはできません。「強い政府・大きな政府」路線と言って良いでしょう。



(3)個人の権利重視・その2
「リバタリアニズム(自由至上主義)」
(ロバート・ノージック)

「リバタリアニズム」は、政治的自由とともに経済の領域における自由を重視します。自分が労働によって正当に得た物は自分のものと考えて、所有権を非常に重視しています。例えば、福祉のためとはいえども累進課税で国家が強制的に取り上げることには反対します。規制緩和、民営化の思想でもあります。


→「超」小さな政府の考え方です。政府は個人の価値観や経済活動に干渉すべきではないとの考え方。政治面・経済面いずれも自由放任が良くて政府はなるべく個人や市場に介入するなと言う考えです。

政治面では「リベラリズム」と共通点もあるが(古い価値観や因習・道徳にしばられない自由)、私の印象としては、それよりもむしろ、社会規範の否定、価値観の自由、法律による縛りも最小限にすべきで「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」と言う超個人主義・自由放任主義の考えのように思います。

結局、リバタリアニズムは、リベラリズムと同じく「個人の権利」を重視してはいますが、誰の権利なのかが違い、「弱者の権利」を重視するリベラリズムとは真逆で、「強者の権利」を重視していることになるので、実際はほとんど真逆の思想のように思えます。

この思想は公権力・政府を信用せず、むしろ邪魔なものとみなす思想でもあり、無政府主義に近いように思います。日本で反政府・反権力を唱える人は、その政府・権力を潰して自分に都合の良い政府・権力と取り替えようとしているだけであり、政府や権力そのものを不要とは思っていないでしょう。

リバタリアニズムの基本的な理念は、17世紀のイギリスの政治思想家ジョン・ロックにまでさかのぼり、彼の考え方はアメリカの建国理念の一翼を担っているわけですから、こういう思想が出てきても当然かなと思います。

アメリカで銃を持つ権利を重視するのは、「市民はいざとなったら政府に(武力で)抵抗する権利がある」と言うロックの思想とつながっているそうです。だから銃を持つのは自分の身を守るためだけではなく、政府が市民の敵になるならば銃を手にとって抵抗するためでもあるようです。

そう、アメリカ人は「政府」と言うものを信用していないんですね。元々イギリス政府に抵抗して独立したわけですから、政府はいつか自分たちの敵になるかもしれないとどこかで思っているのかもしれません。なので、「お上」意識の強い日本人にはあてはまらない思想だと思います。



(4)共同体の価値を重視
「コミュニタリアニズム(共同体主義)」
(マイケル・サンデル)

権利を重視する3つ目の考え方が、美徳を中心に正義を考えるやり方です。サンデルはこの考え方です。リベラリズムやリバタリアニズムはあくまでも人権というように個人を中心に考えますが、コミュニタリアニズムは人々が共にあることに注目し、共に考え、共に行動する共通性を重要視しています。

また、コミュニタリアニズムの特徴として「善き生」──善き生き方を考えることが、正義を考える上でも大事、という点が挙げられますね。共通性と善のふたつに注目し、政治の目的を「共通善(何がコミュニティにとって善いことかという考え方)」に置いています。


→サンデルはこの4つめを支持している人です。そして、私も実は日頃から言っていることとは矛盾しますが、この4つめが1番まともかなと思っています。サンデルの本を読むとそうなります(笑)。

コミュニタリアニズムは、直訳すれば「共同体主義」になります。共同体の人々に共通の価値観(正義・道徳など)を重視しましょうと言う考え方です。

ただし、共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わないというような全体主義・国家主義の主張とは違います。

とは言っても問題点もあり、一つは、共同体の価値観に反する者は排除すると言う考え方にもつながるでしょう。

もう一つは、果たして、国家レベルの大きな共同体に、共通の価値観など構築可能なのか!?と言う疑問も当然出てくると思います。

そういう不完全さはあっても、人間は社会的動物であり、お互いに助け合ってしか生きて行くことができない存在、そのようにして発展してきた生き物だと思います。

むしろ、共通の価値観どうしの集団でゆるくまとまって、その最大公約数の最小単位を国家とすべきかなと思います。そして、同じ国民は仲間同士なのだから、助け合うのが当然と考えるのが自然ではないでしょうか?実際、日本人の多くはそのように行動しています。これは、ある種のナショナリズムであり、最近注目されつつある「リベラル・ナショナリズム」と言う考え方に近いと思います。

リベラル・ナショナリズムの立場では、国家は個人の権利を抑圧する装置ではなく、個人の権利を守るための存在であり、少なくとも同じ国民は仲間同士なのだからお互いに助け合うものと言う考え方になります。この考え方によれば、社会保障や福祉政策にともなう累進課税や所得再分配の根拠に、「同じ仲間同士だから困っている人がいたら助けるのが当然で、それを負担するのは余裕のある者の役割」と言えるわけです。

まあ、しかし、実際には難しいですね。特に日本では自分と考え方が違う相手を徹底的に攻撃して排除しようとするのが左右ともにさかんで、国民同士で足のひっぱりあいばかりしています(これこそリベラルとは真逆の態度!)。とても、「同じ国民なのだから」と言うことでまとまるのは難しそうです。だから、党派的にまとまって敵をたたくと言う発想が私は嫌いなのです。

途中から、コミュニタリアニズムとリベラル・ナショナリズムがごっちゃになってしまいました。このへんの区別はまだ勉強不足です。まあ、別に結論を急ぐ必要はないので、もう少し考えてみたいと思います。
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意志決定は誘導される

脳科学とか言われているものには、心理学のようなものや、科学とはいいがたい怪しいものなども含まれており、怪しげな「脳科学者」もかなり多いように思います。もともとまともだった人でも、M木K一郎氏のように脳科学者としてテレビに出て有名になると、脳科学以外の分野ではそこらへんのオッサンと同レベルな知識・見識しか無いことを忘れてしまうのか、ツイッターで愚にも付かないことばかりつぶやいて炎上をくりかえすようになる人もいます。

そんな中、怪しくない脳科学者と言うかまともな脳研究者のコラムを読んでなるほどと思いました。タイトルは以下です。

なぜ能力の低い人ほど自分を「過大評価」するのか

このタイトルを見れば誰しも、自分のまわりに実際にいる「能力が低いのに自分を過大評価している誰か」を思い浮かべると思いますが(笑)、実際はそういう話ではありません。

このコラムで書かれている内容は、要するに、「自分で自分の無能な部分に気づくことはできない(難しい)」と言う意味のことです。そう、ある意味このコラムは、自分自身のことを言っているのかもしれないのです。実際、私もそうでした(汗)。

「自分のダメなところには自分ではなかなか気づけない」と言う、まあ言ってみればあたりまえの話です。これも脳科学と言うより心理学みたい話ですが。

それはさておき、このコラムの後半に書いてある、「どうすれば収入を増やせるか」のところの「おとり効果」の話のほうが私は面白かったです。

カレー屋のメニューが

普通カレー ¥1000

特製カレー ¥1500

の二つだと、¥1000のカレーを注文する人が多かったとしても、選択肢を1つ増やして

普通カレー ¥1000

特製カレー ¥1500

極上カレー ¥3000

とすると、この「3000円のカレー」を注文する人はほとんどいなくても、1500円のカレーを注文する人が激増するらしいです。

もっとすごいのがこちらの例。米マサチューセッツ工科大学のアリエリー博士ら実験です。

経営学専攻の学生に英経済誌『エコノミスト』を定期購読してもらいました。

ウェブのみ購読  $59

冊子&ウェブ購読 $125

という選択肢では、冊子とウェブの同時購入を選んだ学生は32%だったのですが、選択肢を増やし、

ウェブのみ購読  $59

冊子のみ購読   $125

冊子&ウェブ購読 $125

としたら84%の学生が冊子とウェブの同時購入を選びました。冊子の値段を「冊子&ウェブ」と同一に設定することで、見かけ上のお得感を狙っているわけです。

実際、この効果は絶大で、おとり選択肢を一つ増やしただけで、40%以上の収入増となりました。


そう、「人は意志決定を自分で行っていない」と言うか、自分で決めているように思っていても、かなり誘導されていると言うことです。


さらに、以前に聞いた話ですが、これはScienceと言う有名な学術雑誌に載った研究ですが・・・
死後の臓器提供の意志を示した人の割合を欧州11か国で調査した結果、比率が以下の通り両極端になっている理由を調べたものです。

死後の臓器提供の意思を示した人の割合
 オーストリア 99.8%
 ベルギー 98%
 フランス 99.91%
 ハンガリー 99.97%
 ポーランド 99.5%
 ポルトガル 99.64%
 スウェーデン 85.9%
――――――――――――――――
 オランダ 27.5%
 英国 17.17%
 ドイツ 12%
 デンマーク 4.25%

これを見ると、極端に高い国(スウェーデンより上)と低い国(オランダより下)とにはっきり分かれています。これは何故でしょうか!?

文化や国民性の違い?ではドイツ12%とオーストリア99.8%で真逆になるはずがありません。オランダでは元々もっと低かったのが、国中やマスコミが全勢力を上げて運動を展開して提供に同意する人を増やすべく頑張ったにもかかわらず、27.5%止まりでしたが、スウェーデンより上に書いた国ではそれほど努力はしていないのに高い%です。

では一体何の違いでこんなに差が出たのか!?答は意外に簡単なことと言うか単純な、たった1つのことでした。

臓器提供意志表示カードの様式の違いです。

極端に高い国(スウェーデンより上)の臓器提供意志表示カードの形式は「臓器提供の意志がない場合には✓」の形式に、極端に低い国(オランダより下)は「臓器提供の意志がある場合は✓」の形式になっているのです。

つまり、スウェーデンより上の国では、提供したくない人は✓をつけて、未記入の人は提供する意志があるとみなされるから高くなり、オランダより下の国は、✓をつけない限り提供の意志はないとみなされるので低くなるわけです。

こういうのを「オプトイン/オプトアウト」と言うようです。

オプトイン(opt in)とは、参加すると言う意味、明確に同意することです。一方、オプトアウト(opt out)とは、参加をやめること、脱退することです。

これはまあ良いのですが、怖いのは、「オプトアウトをしないかぎり同意をしたものとみなす」のも、オプトアウトに含められてしまっている点です。

臓器提供を拒否しない限り、提供に同意したものとみなす・・・と言うのはかなり乱暴なような気がしますが、スウェーデンより上ではそうしているのです。でも当人はチェックしないと提供の意思表示をしたことのなるのが分かっているわけですから、質問の形式が意思決定を誘導したことになるでしょう。

ちなみに、日本の運転免許証の裏面にも臓器提供の意志表示を記入する欄がありますが、これは面白いことに、

1.心停止と脳死で臓器提供
2.心停止の場合のみ臓器提供
3.臓器提供しない

の3つが書いてあり、希望するものに○をつける形式になっています。記入しない場合は判断保留と言うことになるようですが、実際には日本はオプトイン型なので、提供する意志を示していなければ、提供しないことになります。これは意思表示を誘導しない良心的な形式だと思います。

少し話がそれてきた気がしますが、自分でものごとを判断していると思っても、実際にはかなり誘導されていると言うのは興味深いですね。
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サンデルを読んでる

気象庁によれば、ようやく近畿地方も「梅雨明けしたとみられる」と言うことらしいですね。昔みたいに梅雨明け宣言などせずに、少しぼかして表現するようになったところは進歩だと思います。未来は確率的にしか予測できませんので、梅雨明けしたと断定するのはそもそも無理な話なのです。

さて、すっかり夏のようで蒸し暑くてイライラ。釣りに行けないのにタコやカツオが爆釣でイライラ。仕事でもイライラ。テレビを見てもイライラ。まあ、テレビはほとんど見ませんが。



さて、冷静に・・・頭を冷やすために考えましょう。

以下、長文かつ哲学的内容を含んでおります乱文ですので、超ヒマで忍耐力のある方だけどうぞ・・・
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経済学者と銀河帝国

読みたい本がたくさんありますが、なかなか読む時間がありません。なので、以前から以下の本をひさしぶりに読んでみたいと思っていつつも、なかなか買うことができずに迷っています。

アイザック・アシモフ「ファウンデーション」シリーズです。

     

 

アシモフと言えば「ロボット三原則」の考案者でロボットものが有名ですが、もう一つの代表作には、「銀河帝国興亡史」の別名でも有名なこの「ファウンデーション」シリーズがあります。

さて、以下のうちでアシモフはどれでしょう(笑)。

170408ishimovs.jpg

どうしてこれがまた読みたくなったかと言えば、きっかけは、経済学者のポール・クルーグマンです。

170408kuruguman.jpg
↑ちなみにこれは2009年5月の話です。

クルーグマンはSFマニアであり、スタートレックにも詳しいことで有名です。結構口もわるくて論敵をボコボコに批判する人ですが、その批判相手を、スタートレックに出てくる最大・最強の敵である「ボーグ」に例えたりしています。

170408borg.jpg
↑異星人・異文明を次々に「同化(assimilate)」することで強力・強大なパワーを持つボーグのドローンたち。

それはさておき、アシモフの銀河帝国興亡史の続編を最近になって現代のSF作家たちが書いたそうで、そのイントロ(解説)をクルーグマンが書いたと聞きましたので。内容はこちらで和訳されています。

面白いことに、クルーグマンが子供の頃になりたかった職業が、このファウンデーションシリーズの主人公ハリ・セルダンの「心理歴史学者」だそうです。そのことが解説で述べられていますので、抜粋します。


「僕は心理歴史学者ハリ・セルダンになりたいと思いながら大人になっていったんだ。人間行動についての数学を理解して文明を救いたいと思いながら。」

「このアイデアが物語全体の基礎となっている。ファウンデーションの中では小さな数学者の集団が、上で述べた社会についての厳格な科学である「心理歴史学」を生み出す。彼らが住む強大な銀河帝国にその科学を適用してみて、彼らは実は帝国が最終的な衰退の過程にあることを見出す。

そしてその崩壊のあとには、3万年にわたる野蛮の時代が続くことになる。しかし、彼らはまた慎重にデザインした誘導により、この道筋を変えることができるのを発見する。帝国を救うことはできないが、しかしやってくる暗黒時代をたった千年にまで短くすることはできる、ということ。」



Wikipediaより


心理歴史学(Psychohistory)は、アイザック・アシモフのSF小説ファウンデーションシリーズ(銀河帝国興亡史)に登場する架空の学問である科学分野。

膨大な数の人間集団の行動を予測する為の数学的手法。社会的、経済的な刺激への人間の感情や反応に一定の規則を見いだすことで、未来の人類の行動をも予測しうる。

ファウンデーションシリーズの根幹をなす小道具である。アシモフはこのシリーズで、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参考にした宇宙未来史を描く事を構想したが、同時にSF的要素として、人類の未来を数学的に予測する手段を作品に導入する事を思い立ち、気体分子運動論において、個々の分子の運動は予測できないが、集団の気体ということなら平均の運動は計算できるという事のアナロジーとして、分子を人間に、気体を人間の集団に置き換える事で「心理歴史学」を考案した。

心理歴史学による未来予測が可能かどうかは、以下の3点が重要であるとされている(これらは気体分子運動論の基本原則に直接対応している)。

①個人ではなく、膨大な人数から構成される集団を扱うこと(気体分子単独で無く、膨大な数の分子を含む気体を扱うのと同じ)
②人々が心理歴史学による予測の内容について知らされず、その影響を受けずに自発的に行動していること(気体分子のようにランダムに行動すること)
③扱う集団が人類のみで構成されていること(気体分子以外の要因が存在しないこと)

過去の歴史の評価よりも、未来予測に主眼を置いている点で、むしろ「心理社会学(Psycosociology)」という名称の方がふさわしいのではないかとの意見があり、後年アシモフ自身もそれを認めながら「当時は『銀河系宇宙の歴史を描く』という考えに取り憑かれていたために『心理歴史学』という言葉しか考えつかなかった」と述べている。

また同時に「人間集団の行動と気体分子運動論の間にはやはりアナロジーは成立しないのでないか」と述べ、むしろ近年登場したカオス理論に言及している(『ゴールド -黄金』)。

これを反映してか、アシモフの死後に3人のSF作家により書かれた『新・銀河帝国興亡史』3部作では、人類社会の秩序を破壊しようとする「混沌(カオス)」と、心理歴史学により秩序を護ろうとするセルダン達との対決の構図が描かれている。



で、あたりまえですが、「心理歴史学」という学問は存在しませんので、クルーグマンは、それに一番近そうな経済学(マクロ経済学)を学ぶことにしたそうです。


世界三大SF作家であるアシモフ、クラーク、ハインラインの3人のうちで、若い頃の私は、クラークが一番好きでした。

クラークの作品は、ファーストコンタクトものが多く、そのコンタクトの相手となるエイリアンも、未知で神秘的で超越的な知性を持つおだやかで謎の存在であることが多かったです。そこらへんが好きでした。

一方、アシモフとハインラインはあくまで人間が主役です。ハインラインの場合は右翼っぽいと言うかファシスト的・好戦的な感じで当時の私には好きになれませんでした。アシモフは未知なるエイリアンがあまり出てこないのでもの足りなく感じました。しかし、今ならば逆にアシモフのほうが楽しめそうです。

銀河帝国興亡史は、あくまで人類の歴史、未来史です。今と同じ人類が宇宙に出て、帝国を築いて壮大な物語を展開すると言う内容です。SFに科学だけでなく人間の行う政治・経済・外交などの問題が取り入れられているわけです。

なので、思い切ってまた買おうか、はたまた、最近はマンガ化もされたようなので、とりあえずマンガ版を買ってみようか・・・悩んで迷っているうちに、買わずにいます。ゴールデンウィークにでも読もうかな!?

    



なかなか長い本を読む時間が無いので、たくさん本を買っても連休くらいにしか読めないでしょう。以前は、電車の中でスマホアプリ(kindleやhonto)で電子書籍を読んで喜んでましたが、目が崩壊しました・・・

仕事中も論文を読んだり資料を整理・作ったりでパソコン画面を見ている時間が長いために、電車の中では目を休めるようにしないと大変です。帰宅後も、あまり目を酷使すると翌日が大変です。

私は老後の趣味として、釣りにはあまり行かず、読書と映画・音楽鑑賞をメインにするつもりでいるので、目や耳がこれ以上に衰えると先が恐ろしいことになります。

釣りは肉体的ストレスが大きいので、いつまでやれるかわかりませんし、もともとアウトドア派ではありませんので。体力維持の努力は続けるつもりですが、老化速度を遅らせても止めることはできません。

体力だけでなく脳だって老化するだろうと言われるかもしれませんし、アルツハイマーなどなれば終わりですが、そうでうなければ実は年を取ってからでも思索にふける脳領域は拡大することが脳科学で証明されているそうです。本当かどうか確かめてませんが、そう信じたいからとりあえず信じてます。それが本当なら若いころよりもむしろ色々考えるのには老後のほうが良いのではないかと思えますので。

最近また政治や経済に関心が出てきて、暇つぶしにそちら方面の読書をしているのは、きっかけはいくつかありましたが、老後の趣味の足場を作るためと言う目的も最近加わりました。

もともと、高校生の頃に「将来大人になったら何をしたいか?」の答えとして、「真・善・美」の追求である、と当時の日記に書いてありました(恥)。実際には「偽・悪・醜」まみれの大人になってしまいましたが(爆)。若い頃は恥ずかしいことを平気で言うものです。

真善美にかかわる職業と言えば、学者か芸術家です。芸術家は無理だとしても、勉強すれば学者になれるかと思ってめざしましたが、実際にはまともな学者にもなれませんでした。

なので、職業としてはもう無理ですから、老後の趣味でどれかを実現しようと言うわけです。結果は自己満足で良いのです。

「真」に関しては、対象が自然・宇宙ならば理論物理や宇宙論、量子力学など?、人間が相手ならば哲学あたりを学ばねばならないでしょう。

「善」に関しては哲学、倫理学、宗教学などでしょうか。

「美」に関しては音楽・美術などかな?

まあ、この中で、年を取ってからでも思索可能な分野と言うと、哲学あたりでしょう。

価値観にかかわる学問としては哲学の中に政治哲学と言うのもあり、宗教の教えもそうかもしれませんが、そういうものを勉強することで、何が善なのかと言うことを考えると言うのは老後も可能なのではないかと思います。

逆に、自然科学は思索によって真理にたどり着くことができる学問ではありません。仮説を立てる部分は思索が重要ですが、真実かどうかの判定は実験と観察に委ねられるわけですので、老後に一人では難しいでしょう。

価値観については何が正しいかなどいつまでたっても決まりませんので、逆に言うと、永遠に考えるネタが尽きないで結論に達しないから、死ぬまでやることがなくならなくて、かえって良いかもしれません。

なんか、またまとまりのないことをグダグダと書いてしまった・・・
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タチの悪いレトリック

それにしても、不思議なと言うか、おかしな言い回しが平然とマスコミによって行われているなあと思うことがしばしばあります。

その1つが、政府の予算執行(歳出)のことを「税金投入」と呼ぶことです。この言い方はミスリーディングな表現であり、悪質なレトリックです。

除染に数千億円の税金投入 来年度から復興予算使う方針

もっとひどいのになると、そのことを「国民負担」と言ってます。

国民負担、なぜ増加? =東電事故費用が2倍に

政府が予算を執行すること、もしくはお金を使うことは、「政府の負担」なのであって、「国民負担」ではありません。

マスコミは日頃から、政府のことをまるで国民の敵であるかのような言い方ばかりして、政府と国民はまるで別物のように言うくせに、この時だけは政府=国民と言う表現をしていますからダブルスタンダードですね。

政府の予算の財源には税金による歳入が充てられているのはその通りですが、税金は政府に納められた瞬間にはもう税金ではないです。意味わかりますか?

さらに言えば、政府の予算の財源は何も税金だけではありません。これは後で詳しく説明しますが、仮にすべて財源が税金だとしても、税金を払っているのは国民だけではありません。外国人だって日本国内で所得があれば所得税を払ってますし、消費すれば消費税を払っています。さらに言えば、法人税と言うのは法人が払っているわけです。法人は国民ですか?

だから、政府の負担を「国民負担」と言うのは二重、三重の意味で不正確です。たしかに一部は国民が払ってますが、新たに追加して請求されるわけでもありません。煽り言葉、タチの悪いレトリック以外の何物でもない。マスコミが自分の価値観にあわない政府の予算執行を批判するために使う扇情的表現です。

仮に財源がすべて税金だとしても、政府が予算執行してお金を使うと言うことは、取られた税金が納税した側にもどってくると言う話ですから、そこらへんがあべこべになった表現で、この表現によって多くの国民は完全に騙されている、錯覚していると思います。

政府がお金を使うと、まるで自分の財布からお金が減って行く気がしているのではないでしょうか!?だとしたら重症です。いつのまにか完全に財務省の立場になって考えています。洗脳です。どっちかと言うと逆なのに。

政府の支出は、「政府がお金を使うことによって、納税した側に税金が戻ってくる」と言うほうがよほど正確な表現ですし、「国民負担」と言う表現は実際とはまるで逆の意味になっています。言葉の使い方によって完全に逆の意味に錯覚させることができるとは恐ろしいですね。国語力が低下しているのではないでしょうか。

ただ、いずれにしろ、厳密には政府の財源は税金だけではないので、政府の支出を「国民負担」と言うのも「取られた税金が国民にもどってくること」と言うのも、どっちも正確な表現ではありません。

国の借金は将来の増税で返さなければならないから、将来世代へツケを回すことになる・・・と言うのも間違いです。間違いの元は、「政府の財源は税収のみ」と言う勘違いによるものでしょう。

そもそも、政府が利用できる財源は税金だけではありません。3つあるのが本来の姿です。

1,税収
2,国債
3,通貨発行

この3つです。政府の予算は税収で100%まかなわれなければならないと言うのは間違った考え方で、その間違った考え方を具現化したものが、「プライマリーバランス」と言う発想です。

そもそも借金はいけないんだとか考えているなら、それは間違いです。マクロ経済を常識や道徳で考えるのがおかしいのです。政府は借金ゼロでやる必用などありませんし、それはむしろ有害です。

基本的には借金があっても、償還期限が来た時にそれを返済できれば何の問題もありません。ちゃんとまわっていれば良いわけです。政府には寿命がありませんので、個人の借金のように死ぬまでにすべて返済してゼロにしなければならないわけではありませんので、家計(個人)とは違います。そういう点では企業と似ているでしょう。

そして、政府が企業とも違う点は、場合によっては借金を半永久的に塩漬けにもできると言うことです。もちろん無制限にやればむちゃくちゃになりますが、必用な量の借金を必用な時期まで返済しないと言うことも可能なのです。具体的には日銀が国債を買い上げて、償還期限が来ても日銀が保有し続ければ良いだけです。

もう一つ、本来、政府と言うのは通貨発行もできたはずなのですが、インフレを悪化させると言う理由で現在ではできなくなっています。そのかわりに、国債の貨幣化(マネタイゼーション)と言う方法があります。

この「国債の貨幣化」のことを通俗的表現で「財政ファイナンス」と呼んで批判する人たちがいますが、おそらくデフレ利得者たちかと思いますが、デフレの時は普通にやるべき政策です。

政府が通貨発行してそれを予算にすると言うことですが、通貨発行は日銀にしかできないので、実際には「政府が発行した国債を日銀が直接に引き受けて、それを財源にすること」です。これをやらないからデフレから脱却できないのはもう明らかです。

日銀が反乱でも起こさない限り日本政府が財政破綻することはありませんので、「国の借金」の名目額が増え続けても名目GDPが増えれば何の問題もないのに、緊縮財政ばかりが進められる(結果としてGDPが増えない)のは、マスコミが愚かなせいだと思いますが、これは本当に深刻です。

政府の予算執行のことを「税金投入」と呼ぶのは、右派・左派に関係無くマスコミに共通しています。出所はマスコミに影響力の強い財務省あたりだと思いますが、この表現がいかに深刻な事態を招いているか、まったく理解されていないのが恐ろしいです。

日本は、国の借金では滅びませんが、デフレや経済成長の停滞によって間違い無く発展途上国に逆戻りです。国の借金が増えても誰も死にませんが、景気悪化や経済の停滞ではたくさんの人が死にます。

現役世代が苦しめば、そもそも将来世代は生まれてこないので、存在しなくなります。政府がお金を使うことを悪いことのように言うのは、もういい加減にしたほうが良いです。緊縮財政をやるくらいなら、無駄使いのほうがまだマシだと知りましょう。もちろん、一番良いのは有効な財政出動ですが。
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